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2020.01.11

しろい手

全国障害者問題研究会発行「みんなのねがい」の撮影で。

施設の近くにある児童公園に子供達が遊びに行っているので、そこで撮ってほしいと先生からお話があり冬の朝その公園に向かった。そこには健常者の子供達(主に小学生)も沢山いて砂遊びやボール遊び、遊具もあり施設の子供達もそこで楽しそうに走り回っていた。撮影を始めてしばらくすると小学1、2年くらいの施設の男の子が目の前まで走り寄ってきた、表情はあまりなかったがほっぺたの赤いかわいい男の子だった。彼は話しかけてくるわけでもなくただじっとこちらをしばらく眺めてから遊具の方に走って行った。公園で走り回って遊ぶ施設の子供達を追っかけながら撮影をしていると、ふと視線を感じさっきの彼が立ち止まってこちらを見ているのに気がつく。彼は近寄ってくることもなくまた皆の中で遊び始めた。子供達を追いかけ1時間は過ごしただろうか。寒い日だったが動き回って汗をかいた、立ち止まり首からカメラをぶらさげ次にどこで撮ろうかと辺りを見回していると、右手の人差し指が突然ふわっと温かくなった。さっきの男の子が横に立っていて、人差指につかまっていたのだ。不意をつかれたが驚いたのはそのせいではなかった。子供が大人の手を取る時そこには物を欲しがったり行動を催促するような何らかのメッセージが込められていることが多いが、その手にはこうして欲しいあーして欲しいと言う類のメッセージはまったく込められていなかったからだ。ただ、手をつなぎたいだけ、そこで一緒にいたいだけ。それしか伝わってこなかった。何もせず、何も起こらなかったが、その少しの間自分と彼はそこでひどく真面目に生きていたのかも知れない。小さな願いが、命の温度がそこでただあたたかく、たしかに自分の中に入ってきた。考える間もなく涙が出ていた。あれは、しろい手。欲望を知らないまっしろの手。そこにいる誰にも気づかれる事なく静かに雷に打たれた。

2019.12.07

ホームページリニューアル

2005年10月にホームページというものを始めてから丸14年。当時33才、30代は瞬きをする前に終わったように思えて自分に30代はあったのかすら怪しい気分になる。1日、朝起きて夜眠りにつく時一生を感じる。今日1日のように自分は生きて死んでいくんだろうと思う。どこまで、自分の目のまえはつづくんだろう。いまもそこにすわっている。

2017.02.17

2・17

3月7日火曜

金沢大学にて、トーク&「そこにすわろうとおもう」スライドショー

カンパニー松尾さんによる、撮影メイキング映像25分も上映します。

北陸では初めての上映です。

お近くで、怖いもの見たさの方は是非。

18才以上の方しか入場できません。

身分証明書も持参してください。

金沢大学の松田真希子准教授とのご縁で、今回金沢大学主催での

イベント開催となりました。

自分が何かを人に教えたり、伝えられるとは全く思っていないけど、

こういうバカも生きてんだなと、ぶらっとのぞきに来てみてください。

それでは金沢で

2016.06.29

6/29

赤々舎姫野より

そこにすわろうとおもう、あと一冊だって。

とラインでメールが来る。

これをもちまして2013年1月発売の

『そこにすわろうとおもう』A3サイズ、400ページ、6kg、23000円

は3年6ヶ月で完売とさせて頂きます。

と書いていたら、最後の1冊が売れたと、赤々舎から報告あり

これで本当の完売です。

この本は2013年のパリフォトでその年に出版された全世界の写真集のベスト10に選出されるも、

多分、表面的な内容の捉われ方によって、日本写真界では黙殺された本でした。

この本を安いと見るか、高いと見るか、価値観の分かれるところだが、一人で3冊買ってくれた人や

プレゼント用にと2冊買ってくれた人もいた。

発売前、90数名の人が内容を全く知らされていない状態で、予約購入をしてくれた事は忘れがたい。

この本は、紛れもなく私そのものであり、すべての人間の本であると思っています。

すべての価値観の中心に存在する命という、全く止まる事なく変化し続ける真実を、一人の自分という存在を通して

見続け、感じ続けまた作品にしていきたいと思っています。

どのような角度でもかまわなくて、この本を手に取り最後までご覧いただいたすべての人に感謝を申し上げたいです。

ありがとうございました。

『そこにすわろうとおもう』完売のご報告まで。

2015.08.24

8・24

『そこにすわろうとおもう』コメント

ハナレグミ 永積タカシ 

 ページを開くたびに 何か見えない予感が じわじわせまってきてさ

裸でスタートラインが切られてからは

言葉にならない

ただただ めくるたびに笑っちゃった 。

だはははっ だぁぁっ でぅはははははっ

声あげて 爆笑がとまらんくなった

でも どうやら 

おかしい わらえるって ことだけじゃなくて 

僕から出た声と 体の動きには

こわい

もまじっていた

受け止めきれない

逃げ出したい 

目を背けたい 

目が離せない

いままで横で一緒に わらっていたのに 

次の瞬間 急に首をしめられて

殺されそうになって いる 

必死で 生きようとする 

全方向にはなたれる

転げ回る

やりきれない 怒り 

どこにも ぞくしてない

この 胸に あらわれた なにか 

どこか僕が 僕のかくしたがってる ものだな

ないことにしたい なにかだ

助けてください 

許してください と 

手を合わせて 心が言った気がするんだ

2015.07.25

7/25

人や物事の本質的な部分に少しでも触れたい。写真でも生活でもずっとそう思って生きて来た。もし触れる事が出来たとする人や事の本質が、自分の意にそぐわない触れるべきものではなかったものだったとしても、その時はそれでいいし、触れるべきではないものなど無いだろう。己の意とは違う事同士の触れ合いが、人と人との極自然なコミュニケーションだから。しかし、誰の知恵や力も借りずに自分だけの発想と行動で直接その人の本質に触れようとする努力もせずに、表層的でテキトーな判断材料だけで物事を決めつけそれを頑なに信じ込むような悲しくも貧しい事だけはしたくない。自分は人を簡単に切ったり決めつけたり、他者に対する気持ちや何より自分の気持ちをあきらめたくない。いままで、たくさんぶつかり合って来た。人の本質に触れたいが為に火鉢にも手を入れた。でも、人は(勿論自分も)変わる。良くも悪くも必ず変わる。命に時間の限りがある以上、人は変化していく事から逃れられない。永遠に決定的な答えを見いだす事無くお互いが揺らめくように変化しながら人生を巡っていく。そこで自分は出来るだけ元気でいたい、豊でいたい、なに一つ諦めずにそこにいたい。(外的物質的な事ではなく)

2015.06.04

大橋仁次回作のモデル募集

大橋仁次回作のモデル募集

今回撮影をさせて頂く人の写真で作品の全てを構成する訳ではありません。
次回作の一部分になります。
基本的にポートレイトの撮影ですが、
撮影内容は大橋と打ち合わせの上一人づつ変えます。

もし自分を大橋の写真で残したいと言う人が居たら是非ご応募下さい。
老若男女の個人、年齢、性別、職業、国籍、関係ありません。また、今回撮影の写真は大橋仁の写真集や展覧会に作品として発表させて頂きますので、使用許諾書のサインをお願い致します。
次回作も人間中心である事は間違いありません。
モデル経験等も一切必要ありません。

★応募の際、自分の顔写真を必ず添付して下さい。

興味のある方、お気軽に、この大橋仁のホームページのMailよりご応募お待ちしております。

なお、次回作の発表時期は未定です。

2015.03.05

3/5

「そこにすわろうとおもう」Tシャツと、トートバッグ、を自分で作った。今日から販売開始。色々やったから、けっこう大変だった。なぜだろう。去年の春ふと、やってみたくなっただけだったので、今後の展開はまったく考えていない。大した事ではないけど、自作は初めて。去年の春も思い立ったのは朝だったと思う。昔は風呂場で色々思い立ったけど、最近では寝起きが多い。

2015.02.11

2/11

朝8時44分、1人で考えるこの時間に自分のすべてが決まっている様な気がする。人が撮りたい、もっともっともっと

2015.01.08

1月8日

2014年12月20日にネット上(http://www.tabroid.jp/news/2014/12/matsumoto4.html)でアップされた自分のインタビューについて、順を追って書いていきたい。

私の最新刊『そこにすわろうとおもう』(赤々舎刊)という写真集には、300人の性交の写真が収録されているが、その写真撮影と、インタビュー冒頭で話したタイでの写真撮影はまったく別のものであることをまず明示しておきたい。その部分についての誤解が流布している。

『そこにすわろうとおもう』は、被写体全員の撮影又は写真の使用許諾を取得し、契約書を交わした上で(撮影モデル達はAV関係のプロの男優女優であり、すべての撮影経費は大橋仁の自己負担)、日本のスタジオで撮影したものである。無人島を貸し切った事実も一切ない。

今回話題になったタイの撮影(東京都写真美術館での展示作品)と、『そこにすわろうとおもう』は完全に別シリーズで、関係がなく、全く別のシリーズであることをまずご理解頂きたい。

『目のまえのつづき』(青幻舎刊)という自分にとって初めての写真集を出したのが、1999年、19才から25才までの6年間、自分の生活の中のあらゆる瞬間にカメラを向けていた。街、犬、セックス、長く付き合った彼女との別れの朝、障害を負った義父の刃物での自殺未遂、その復活(人間とはそもそもあまりにも存在が不確かな生き物、人間同士、お互いの関係性だけが唯一その存在を確かめ合っている)、人間の持つ不確かな絶望と希望。その頃、濃い霧の向こうから伸びている一本のロープを、生と死、幻と現実、希望と絶望、実はそれらを自ら宿している己の命を乗せた肉体から、けして理解する事などできない程途方もなく深く大きく、そして厳然とそこにある肉の気配を、血の予感をたぐり寄せはじめていた。

2005年は、ある幼稚園で130人程の子供達の四季の姿と、10組の妊婦の出産シーンを1年8ヶ月かけて撮影し構成した2冊目の写真集『いま』(青幻舎刊)を刊行したばかりの頃だった。理屈の一切ない子供達の無垢で強力なエネルギーに揉みくちゃにされ、まさに生れ出る瞬間の命の姿を正面から撮影し、追って走っていた、陣痛が始まって24時間以上も生まれないお母さんもいたし、接写しすぎて息む妊婦さんの羊水をかぶった事もあった。人間の生れ出る現場、その瞬間、その場では何が起こっているのか、誕生とは何だろう、母の卵巣で灯された命の記憶は血と肉に刻印され、生活している我々の今この瞬間も己の感覚に直結して繋がっていて、最初に刻印されたその感覚は人間が死ぬまでの人生のそれぞれの羅針盤になっているように感じる。人間という肉が、命という巨大な存在がまたしても己の意識とちっぽけな存在を包み込み飲み込んだ、その生の存在は心地よかったが、同時に死という圧倒的な無の世界が広がっている実感は、自分の中で命とはそういうもの、という学びだけではすでに終わらせる事ができなくなる体験だった、一冊目の時より命の記憶や肉の存在とそこから発せられているエネルギーに関して更に自覚的になり、命へと繋がっていく知りたい、近づきたいという欲求は自分の中で決して排除できるものではなかった。

2005年、仕事の撮影で訪れたタイで、巨大なビル型ソープランドの立ち並ぶ街に行く事になった。

(日本にも飛田新地など置屋街は行った事があるが、飛田はそれぞれ別棟で一戸につき一人の女性が店の入り口で客を出迎える形式であり、そういった置屋が一区画に林立はしているが、一つの部屋に小さくとも30~50人、大きい所では100~200人ほどの女性が待機しているような店は日本には一軒たりとも無く、その規模において自分は世界中でバンコクを超える場所を知らない)

店の基本的な形として、大小様々だが建物の内部に金魚鉢と呼ばれる女性達の客待ちスペースがあり、そこはガラス張りだったり、そもそもガラスの仕切りが無い店もある。女性の容姿がわかりやすいように待機スペースはひな壇型に作られていて、女性達は番号札をつけ、裸の状態ではなく、衣服を着た状態で、ひな壇に座って客を待つ。客は女性を選ぶと同じ建物内の個室に移動して行く。客が女性達を選ぶ金魚鉢前のスペースは、酒を飲むようなバーになっていたり、ベンチシートがならんでいたりと様々で、飲み物を飲めばお金はかかるが、希望者は誰でも無料で入場する事ができる。そしてこのような建物の中の金魚鉢だけではなく、バンコクの街角ではまったく一般の人々が行き交う通りに面した金魚鉢も点在していて、お店に行くつもりのない無関係の老若男女も、客待ちをする彼女達の姿を彼方此方で見る事ができる。つまり、客待ちをしている女性達の前に広がる客のスペースは、個室でも、密室でも、私的な空間でも全くない、希望者であれば、誰でも出入りができるほぼフリーなスペースなのが事実。

自分は最初何も知らずに立ち入ったのだが、突然現れたその光景に愕然とした。公然とした売買春の現場である事、そのシステム、そのスケールの大きさにもだが、女性の待機スペースは常にすべて客側の一方向に向けて作られており、寿司詰め状態で待機する大勢の女性達の凝縮された視線は、ひょっこり入って来た客に一斉に集中し、男は女性を見ているつもりが逆に自分が見られている感覚になるほどの視線の圧力を感じる。そこにいるすべての女性にそれぞれの全く違った思いと事情がある、しかしそこは、肉欲を求め満足させるというたった一つの目的だけがすべてを支配している空間、金を稼ぐ為に、ただ客の肉欲に対応する準備をして女性達はそこにいて、男達はそこに群がる。その場を支配する目的がシンプルで、単一的で、原始的であるほど、その集合体が発するエネルギーは人間の根源的な動物としての欲望と本能をかき立て、濃い生と死の匂いを放つ。本来セックスとは種の保存を目的とした非常に野性的で動物的なエネルギーの交換行為であり、現代では一対一で行われる事が普通とされている世の中で、このような肉欲の満足のためだけの原始的で刺激の強いエネルギー交換の場が集合体(店で乱交しているという事ではなく、金魚鉢の存在の事を指す)として公然と大規模に存在し、強いエネルギーを発散しているのを自分はバンコクの金魚鉢で初めて見た。その寄り集まった人々の肉のエネルギーはすでにそれぞれの私情を超え、飲み込み、まったく原始的で、動物的な肉の叫びが共鳴し合っている大きな命の塊の前にいきなり自分は立たされたようだった。その大きな命の塊を前にした時、すでに自分の中で今まで繋がってきた命へ、肉への文脈が一直線に繋がってしまった。売買春における様々な価値観や倫理観、それぞれの感情や思いとは全く別の、人間の肉体、命の領域、億の精子が卵巣を目がけて突き進む姿、精子と卵子の結合、細胞と細胞のぶつかり合い、ミクロの世界での、人間の作った小さな価値観など遠く及ばない領域での激しく壮大な命の衝突と発生の記憶を、金魚鉢のまえで自分は瞬間的に体感してしまったようだった。非常に身勝手な事は充分承知しているが、あの当時、撮影者である自分にとって、もうひく事の出できない状況になっていた。売春宿の現状を社会的に訴えたいのでも、女性達の人権や尊厳を蹂躙したいのでも、写真表現や芸術の為などでも一切なく、自分の知る限りの世界で稀に見る限られた区域でしか発生しないエネルギーの渦に、一個の命としてカメラと共に体でぶつかってみたい、飛び込んでみたい、ただそれだけの思いが涌き上った。それはそこでうごめくエネルギーと自分の命の引き合い、共鳴でもあった。

自分が撮影場所にした金魚鉢では、ほとんどの場合、カメラにバッテンマークが描かれている撮影禁止のステッカーや張り紙がデカデカと貼付けてあり、撮ってはいけない場所なのは誰でもわかる。最初に仕事で行ったタイで撮影は一切せず、完全に自分の撮影のためだけに再度タイ、バンコクに向かった。

最初は現地のコーディネーターに仕事として、お店に対する撮影許諾、働く女性に対する許諾を依頼して、もちろん自腹で巨大な金魚鉢を貸し切るわけにもいかず、中規模で撮影許諾ありの店を十数軒撮影した。そこで出会った女性達の表情は、屈託がなく、軽やかで、とても美しかった。自分の撮影のために、お店の空き時間や休み時間にわざわざ出て来てもらったりして、戦闘態勢に入っているお店での精神状態は一旦リセットされ、前もって撮影される事に準備をし、彼女らは一人一人見せたい自分の姿で現れた。それ自体は非常に素晴らしく美しい姿であり一対一で撮るポートレートとしては良い写真になったのだが、今度は2~30人の集合体としてガッチリカメラ目線をもらって撮影しても、前もって撮影の為の準備のされた精神状況と場で行われる撮影は彼女達から発せられる、気が、エネルギーが、静かに整い落ち着いており、職場の広告写真、又は職場での記念集合写真のようになってしまい、自分が出会った初めてのあの瞬間の、むき出しの破壊的なエネルギーはそこには無く、その場で流れるエネルギーの周波数のチャンネル自体が別の物になってしまっていた。十数軒の許諾有りの店と百人以上の許諾有りの人を撮影し、自分はその違いに愕然となった。

金魚鉢での彼女達の強力なエネルギーにぶつかるために、許諾は逆に障害になってしまう事を悟りゲリラ撮影に手法を切り替える事にした。

客の入ってくる一方向に向って座っている女性達に対して、自分は一人の客として入っていき、金魚鉢の真ん中の真正面から、カメラを構え撮影した。まず撮られている女性達が撮影者である自分の行動に瞬間的に気付く。店員や用心棒や他の客、誰にでも自分の撮影行為は瞬間的に目視で確認できる、それほど目立つ場所のど真ん中で自分はカメラを構えた。撮影のチャンスは1シャッターしか無い。1シャッター目で気付いた女性達は、2シャッター目では顔を背けたり、手荷物で顔を隠したり、その中の2~3人はひな壇から降りる人もいた(パニック状態というインタビュー中の自分の表現は大袈裟だった)。しかしほとんどの女性はひな壇に座ったまま動かず、場内がパニック状態になる事はなかった。なぜかと言えば、自分のような撮影禁止場所にもかかわらず写真の撮影をしようとするバカな観光客など世界中におり、たぶん1日に何人か居るのかもしれない、そのため店としては大きな撮影禁止ステッカーを貼り巡らせ注意喚起を行っている、それでもカメラを向ける人間がいれば5秒以内には用心棒が走って来て取り囲まれる。フラッシュを発光させながら、パニック状態に陥って逃げ惑う女性達の背後をカメラを持って追いかけ回すような物理的時間など全くなく、自分はそんな事をしたいという意思など微塵もない。女性達があまり慌てないのは、自分のしたような瞬間的な無許可撮影には慣れっこで、たまに現れる変な観光客の一人という捉え方しかしなかったからだろうし、店側はそういう私のような馬鹿には常に迅速に対応するからだ。取り囲まれると、馬鹿な観光客を装い撮影を止めた。場内が自分の撮影行為で異常な混乱をきたす様な場合が、もしあったとしたらそれ以上の撮影も絶対しなかっただろう。

タイでは民間人がけっこう普通にピストルを持っている。民間人の拳銃所持はタイで違法なのかどうかは知らないが、店の用心棒などが拳銃を携帯している可能性は非常に高い。誰からも見えるその場所で一人カメラを構える事が、また、それを他の数店で繰り返すと言うという事が、自分の死のリスクを発生させる事もわかっていた。それほどまで、あの当時の自分は人の発するエネルギーに、引き寄せられ、非常に強く呼応する自分の肉と、命の引き合いから逃れる事ができなかった。シャッターの一押しが、まるでロシアンルーレットの一回の引き金のように感じたが、惹きつけられている大きなエネルギーを前に、そのエネルギーに飛び込まない事、シャッターを切らない事は、大袈裟に自分の人生の敗北と終わりを決めてしまう行為のように思えていた。自分はシャッターを押した、引き金を引いた、幸運な事に実弾が自分のこめかみを貫通する事はなかった。

現地コーディネーターが「こんな事を繰り返していたら殺される」といち早く離脱して行ったのは当然だったと思うが、あの集団の命の発するエネルギーは、学校の集合写真などで発せられるそれとはまったく異質のものであり、あそこに、男娼が混ざってていたとしても、または、男娼だけだったとしても、男女の性も、国も、職種も、思想も宗教も全くもって、一切関係なく。そのある、非常に限られた方向のエネルギーを発する命の塊があれば自分はその正面でカメラを構えただろう。

エネルギーに対して真ん中の真正面からぶつかる事だけを願ってゲリラ撮影に踏み切り、そのために死のリスクもいとわなかった自分が、誰の目を恐れ、盗撮や隠し撮りなどという姑息で無駄な事をする必要と理由が、一体どこにあったと言うのだろう。コソコソ隠れて行う盗撮などでは断じてない。自分は、撮影禁止場所での無許可のゲリラ撮影をその空間の真ん中の真正面で、瞬間的にだが、行ったと言う事だ。

悪自慢や、芸術自慢をするために命をかける程自分は悪でも、芸術家でもない。自分は自分の命の反応と、人間の命が響きあい、ぶつかり合う事で発する自分を遥かにしのぐ大きな命のエネルギーにただただ飛び込みたいだけの一個の命だったにすぎなかった。

今回ネット上で掲載された自分の作品に対するインタビューによって人々の誤解を生み、喋り言葉がそのまま文字ヅラとして並ぶと、伝えたい言葉の本質と違う方向に受け止められて、初見の人達に、時には不必要に不安や敵意を煽るような印象を与える記事内容になってしまった事、またそれをしっかりチェックし正さなかったのは、自分の不徳の致すところである。そして、当時タイで自分のゲリラ撮影の現場に居あわせたタイ人等の方々に対し、ご迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます。

東京都写真美術館での「スティルアライブ 新進作家展」に於いて2007年11月~2008年2月迄展示された、タイの金魚鉢で撮影した3点の写真については、被写体の方の事情や諸般の事情を思い合わせ、今後、新たな展示や掲載を差し控えたいと考えます。

私たち人類は、肉から生まれて来たのだ。

その事実から目をそらしてはいけない。
人は現代を、ハリボテの様な後付けの論理と理屈で作られたルールに則って生きている、ただそれだけの生き物なのだ。
時代性でコロコロ変化する後付けのルールではなく、自分の肉のエネルギーを通した感覚と反応という人類誕生以来ずっと一貫して揺るぎない生きるための本質的な命のルールに目を向けるべきだ。
あらゆる方角と次元から発想を巡らす事ができる人間の持つ小さな想像力と、感受性、それだけが人類最後の武器だ。
全ての人類の持つ、能力の限界の壁を前に、自分は頭の良い知的生物だと言う単なる勘違いを捨て去り、自分の肉が発するエネルギーと、他の人間との肉と肉のコミュニケーション(性交と言う意味ではない)に注目する事が出来たなら、人は自ら、その真の姿を知り、自覚する事になるだろう。自分とは。命とエネルギーの正体に近づく試みを重ねる事でこそ、今やるべき事がはっきり見えてくると自分は信じている。

2014.05.09

5/9

轟音をあげながら燃えあがる一軒の家を背後に大鎌を振り上げ近寄ってくる男がいる、大鎌を振りかざし男は物音をたてずに近寄ってくる、自分は目をつむりひざまずき首を差し出す。視力を失った自分の目はまぶたをあけているが何も見る事が出来ない。目の向いている方向はま近の地面、自分はまぶたを閉じる、男は大鎌を振りかざし近寄ってくる

2013.09.23

9・23

9月10日に渋谷WWWで行われた、大橋仁写真集「そこにすわろうとおもう」刊行記念イベント、七尾旅人百人組手番外編から2週間が過ぎた。

七尾旅人、梅津和時さん、カントゥス、豚、彼らの出した音が写真と渾然一体となって450人の来場者を巻き込み肉の洞穴が出来上がったようだった。

旅人の音の世界の凄みは狂気の部分にあると自分は思う。彼は途方もなく純粋で優しい部分がある、その優しさが全面に出ている音も大好きなのだが、その反面にある彼の闇と狂気の部分、その世界での旅人は凄まじい。旅人の純粋さが闇と狂気の中に反映されるのだ。途方もなく純粋な分、闇と狂気も透明度が高い。

演出ではなく無邪気に闇と狂気の中で音と遊ぶ事の出来る人間はそうはいないと思う。いくら明るい歌を歌っていてもかえって彼の闇の部分はその明るさに寄り添っていて旅人の狂気に見た事のない光をあて輝かせる。その音を聴くのが好きなんだ。

普通なら皆さんのご来場にお礼を言う所なのだろうが、誰かとセックスしてその相手にありがとうと、お礼を言うのはなんかおかしな感じがするように、普通の例の言葉では物足りないのだ。

あ~気持ちよかった、な。なんて感じだろうか。セックスと同じように体感した事のない人間にセックスを語る事は出来ない。やった事のある人間が、やってない人間に言える言葉は一つ。やってみろ。それだけなのだ。体で感じる事の得体の知れない味わいを知る為にはその場に来て、やってみるしかない。全てがお膳立てされている状態で踏み切れないヤツは一生そこでつったって指くわえて見てろ。って事になる。言い方が荒っぽい風だが、普段の話し言葉を採用している。ご容赦。とにかくまたやるだろう。どこかで。その時はまた踏み込んで欲しい。

写真集「そこにすわろうとおもう」が発売され、9ヶ月。現在販売数は900冊を超えた。ジワジワと残りが少なくなって来ている。誰かのをかりて見るとかではなく、自分の手元に置いて、

あの写真集と一緒に生活して欲しい。それなりにパワーがいるかもしれないが受けて立ってほしい。日本の写真業界では、「そこにすわろうとおもう」は今の所ほぼ、黙殺。

1冊目「目のまえのつづき」2冊目「いま」も写真業界の中では黙殺されてきた。今回の本もその方向は変わらずピタッと黙殺されている。俺の出す本は最初からずっとこうだ。支持を表明してくれるのは荒木さんただ一人だけだった。いまニューヨークで開催されている、パリスフォトアパチャーブックアウォードで、最優秀作品を決める為のコンペが行われ、各国の出版社からエントリーされた写真集は300冊以上。

「そこにすわろうとおもう」は最終選考の候補作10作品の中の一冊に選出された。日本写真界では、黙殺が続いている。日本で俺の本を見た人間が臆面もなく俺に対して大橋さんの本は海外の方が受けますよ、などぬかす。ヘドが出る。日本だろうと海外だろうと、人間の感受性の本質は変わらない。自分の姿勢を表明する事もしない人間が、適当に俺の姿勢表明を受け流しているだけなのだ。1冊めの本を出したときからずっとそうだったが、自分はこういう国に生まれたのだという事を常に心に刻みこむしかない。

しかし、この怒りが次の作品への原動力になる、それも確かだろう。

2013.08.28

8・28

 今夜21時30分からユーストリームで放送される、鹿野淳さんと高橋優くんの番組「ノイジーマイノリティ」にわたしがお呼ばれして出させて頂きます。タイミング会う方はご覧下さい。なにしゃべるかわからないけど。。

2013.07.07

7・7

青森での撮影が終わり東北新幹線で東京に戻っている。被写体は地元の一般の方々。色々あるのでそれ以上は書けない。東京に全て揃っていると思っても、その土地の物をその土地で食べるというのはやはり別次元の味わいがある。大きな畑に陽が落ちようとしていた。ロケバスの中、長い一本道、遠くを歩く人、視界のすべてを夕方の斜光が照らしていた。斜光はいつ見てもいい。終わりのイメージなのか、始まりのイメージなのか、すべてがドラマチックになる。そこにあるすべてが美しく見える。人間の営みを素晴らしい物のように思わせてくれる。肉の放つエネルギーは人間がいる場所すべてに沸き上がっている、そのエネルギーを感じる事が嬉しい。しかし、その肉のエネルギーは精神をまとっている、感情の表現をまとって生きている。精神の奥の肉のエネルギーに魅了されるが、精神と感情という人間という肉にとって切り離せない表層の姿にも強く魅了される事は間違いがない。良い顔をして笑う農家のおじいさんの顔が好きだ。彼らのしゃべる言葉が好きだ。酒の飲み方が好きだ。人間の世界が好きだ。人間にとって人間が一番面白い。その事が瞬きの度に自分の肉の反応を呼ぶ。

七尾旅人と9月に写真集「そこにすわあろうとおもう」刊行記念イベントを開催する。ハチ公前で旅人と待ち合わせた。久しぶりなのに、お互い大して喜ばない。それはお互いの心がいつも近くにいるから、体の対面が久しぶりなだけで、しょっちゅう会って話しているのと変わらないからだろう。会場の下見の後、下北沢で二人で酒を飲んだ。旅人は自分の人生と表現にどこまでも実直であり、世間を気にせず突き進んでいる、そしてあらゆる可能性を否定しない。可愛い顔しているが非常にタフだ。ああいう男は非常に少ないと思う。旅人が好きだ。「そこにすわろうとおもう」のスライドに旅人が生で演奏して音楽を付ける。カンパニー松尾さんのメイキング映像と、自分が第一通報者となった事故現場での映像も上映する予定。旅人とのトークもあり、イベントの時間は3時間ほどにはなるだろう。何が起こり、どのように響くのだろう。全く予想がつかない。どこでもないどこか、誰でもない誰か、いつでもないいつか、そんな気持ちの良い夜になると思う。必見です。詳細は近日改めて告知させて頂きます。

7月6日発売の新潮社の文藝誌「新潮」に5200文字の「肉」の話しを書かせて頂いた。肉と肉のコミュニケーションの話。最初は2600文字での依頼だったが、色々書きなぐっている間に、原稿用紙30枚を超してしまい、いい加減収拾がつかなくなりそうになり、バサッとその量になった。そのまま掲載してくれた新潮の編集部の方々に感謝です。いま、本屋さんに行くと、ガッチリ並んでいるので、「新潮」是非手にとって読んでみて欲しいです。

2013.06.08

6・8

写真集『そこにすわろうとおもう』刊行イベント
関西ではこれが最初で最後、ぜひ見て欲しい。
明日、6月9日、京都ホテルアンテルーム 15時30分会場~19時頃終了予定 
6月10日、大阪、スタンダードブックストア心斎橋 19時~22時頃まで
京都では、写真集『そこにすわろうとおもう』の全編スライドショーに音楽自分で付けたバージョン。写真集の編集時にかけていた曲を一緒に流します。あの時の編集していた部屋に一緒に居るかのような感じになると思う。そして、カンパニー松尾さん制作の写真集撮影メイキング映像24分、これは東京でのイベントでも反響凄かったです。
大阪では数年前に自分が第一通報者になって撮影をしたある事故現場での映像24分、そしてカンパニーさんによる写真集メイキング映像24分、
これらの映像をもって明日から京都、大阪、行きます。
皆さんお誘い合わせの上、是非ともおいで下さい。
開場で会いましょう!

2013.05.30

5・30

ちょっと前に、ある文藝誌の編集の人から文字原稿の依頼があった、なにせ撮影の依頼ではなく文章のみの依頼は初めてだったので最初に聞いた文字数に一瞬、躊躇したがうまく書こうとしなくていいという言葉にすくわれたし、見本誌等送ってもらって色々拝読しているうちにやってみようと思って、最近は撮影の移動中なんかもかつて無いほどエアーマックをパチっている。自分のホームページのブログにふざけたクソ独り言はちょくちょく書いてきたのだが、根本的に書くという作業に慣れていないしその能力も無いのででスラスラ思った通りに書けるものじゃない。でも、誰かに読まそうとしている文章ではなく、己のアホでとっちらかった頭の整理だと思ってパチっているとこれが意外と文字にする事で見えてくる自分自身の気持ちというか心理が水の底から浮かび上がってくるっつうかこんがらがっていたヒモの束が徐々にほどけて来る様な自分セラピーしてる様な気分になって来て、ちょっとだけおもろいかな、なんて思いながらパチっている。読み手には気は使わないので、使ってる余裕は無いので、自分の写真集と同じく。自分の欲を満たす為だけに書いてみようかと思う。色々考えたけど文字も肉についてになりそうだ。詳細教えられるタイミングでまたご報告します。いやしないかも。6月9日京都アンテルーム(今回初の「そこにすわろうとおもう」の全編をスライドショー上映&カンパニー松尾さんの写真集撮影メイキング映像上映合わせて1時間ほど&トーク)、10日大阪スタンダードブックストア心斎橋、(自分が第一通報者となってそのまま撮影をしたある事故現場での24分ほどの映像&カンパニー松尾さんの写真集撮影メイキング映像上映合わせて1時間ほど&写真評論家竹内万里子さんとのトーク)やりに関西行きます。日曜の昼過ぎと月曜の19時過ぎと言う、働いている人が非常に来やすい時間帯でイベントを設定させて頂きました。2日間もあるしどっちか1日でも関西に住んでいるなら来ない理由が見当たらないようになってます。もちろん当日券もありますが、ご予約して頂けるとスムーズです。テレビじゃ見れないもの見れまっせ。18才未満入場禁止や。詳細はうちのHPの表紙にでています。お友達や知らない人なんかもお誘い合わせの上ぜひおいでくさい。お待ちしています。

2013.05.20

5・20

写真集「そこにすわろうとおもう」刊行記念イベント、京都、大阪、開催決定!
場所6月9日、日曜日 京都,ANTEROOM、15時15分開場16時~19時位まで
6月10日、月曜日 大阪スタンダードブックストア19時位~22時過ぎ位までゲスト写真評論家 竹内万里子
チケット1500円  18才未満入場禁止
詳細 お問い合わせ ご予約は 各会場か赤々舎ホームページまたは赤々舎03-6434-0636まで

4月に東京原宿のVAKANTで行われた刊行記念イベントで上映された、カンパニー松尾さんによる写真集の25分間のメイキング映像に加え、東京では上映しなかった自分自身が第一通報者となって、撮影したある事故現場での24分間の映像を合わせてご覧頂こうと思っております。56ページに及ぶ今回の写真集へのコメント集小冊子(非売品)も、開場でのみ配布させて頂きます。これは数に限りがありますので、無くなってしまったらすみません。映像には一部過激な所がありますので、東京同様、今回も18才未満は入場禁止です。
もう写真集をご覧になった方、まだ見ていない方、今回は2つ合わせて1時間近い映像の上映になります、お誘い合わせの上ぜひ、おいで下さい。

2013.04.30

4・30


考える脳みそを完全に無くした、白雉達がおしゃべりをし、何やら笑っている。

なにが、そんなにおかしいんだ?

そう、死は、自分の座っているソファの床から立ち上がりゆっくり自分の体を包み込む。

霧の様なベールがまとわりつき、呼吸を静かに圧迫し始める。

一旦全てが無になってしまった世界から立ち昇る、地球上、初めての日の出の様な真紫の空が見える。

感情などそこには存在しない。

空気は澄み渡っている。

やがて、何も見えなくなる。

2013.04.29

4・29

写真集「そこにすわろうとおもう」は販売数が3ヶ月で700冊を超えた。

購入頂いた皆様、本当に、ありがとうございます。

赤々舎のホームページのみで、実質的には1月末からの販売だった。

限定1500冊、A3横型、400ページ、重量6キロ弱、23000円。

肉と肉の記憶。

この国で、このような本がこの短期間にこの数売れるという事は、健闘だと思う。

1500冊限定と言っているが、手作業での製本や印刷作業上の問題で欠品が出ているので、実質は1400冊くらいが実売できる数の限りである。

丸3ヶ月で、もう半分が無くなってしまった。

売り切れる前に、早く手に取って欲しい。

差し出された帽子の中のキャンディは、その時に掴まなければ無くなってしまう。ってさ。

うじうじして、無くなってから見たがっても手遅れ。

こんなものは、さっさと買いましょう。

言い方が、手荒ですね。すみません。

先日、バカントで行われた刊行記念イベントにお越し頂いた皆様、ありがとうございました。

ハマジム、カンパニー松尾さんの全面的なご協力のもと、撮影当時のメイキング映像も上映できて、とても嬉しかったです。

正直しゃべり足りないくらいでした。

東京でもう一度、今回とはまた違った感じでイベントをやりたいと思っています、

そして、東北、関西、福岡、

とイベントというの旅に出ます。

先日原宿バカントで見て頂いた、カンパニーさんのメイキング映像にさらに、25分ほどの私の映像作品を追加してお目にかけたいと、考えています。

その時はぜひまたおいで下さい。

2013.03.23

3・23

赤々舎ホームページで、「そこにすわろうとおもう」代引き購入しようとしたら、完売の文字が出るという、悪夢の様なミスが起こった、いま必死でプロモーション活動をじみーに、コツコツ続けている真っ最中に、顔面に冷や水をぶっかけられたようなものだ。身内の痛恨のミス。本はまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだいっっっっっっぱい残ってます!完売なんてありえない!!みなさん、完売したときは、このホームページでも、赤々舎のホームページでも、必ずご報告致します。残りわずかになって来た段階から、ご報告します。完売なんてまったくしてません。本は、すぐに買えます。お騒がせ致しまして、誠にもって申し訳ございません。ミス表示を見て買うのを辞めた方、全然売ってます。今買えます。今後も購入ボタンを押して完売の表示が出たら、それは間違いです。こちらの発表のない段階での完売はありませんので、また、もし完売表示出たら、私宛にご一報下さい。すぐに対処致します。よろしくお願い致します。

2013.03.15

3・15

人生には良い事と悪い事しか無く、その完全に中間て言うものは存在しないようだ。結局あるとすれば、どちらかと言えば悪く、どちらかと言えば良い、そういったものだろう。小学校の時理科の授業で、先生がこの世に存在する物質で分割できないものは無い、どんなに小さいものでも、延々と分割し続ける事が出来ると言っていたのを思い出す。生きているか、死んでいるか。それだけの世の中なんだろう。便所で20年も前に死んだ人の書いた文章を毎朝読んでいるんだ。町には死んだ人の作った音楽や建物、洋服だってあふれている。道を尋ねて親切に教えてくれたおばあさん、もう彼女と今生で会う事は無いだろう。お互いそれが最後の瞬間、最後の瞬間の連続の中で、生者が死に囲まれてい生きていてふと気がつけば、さっき生きていた人間がもう死んでいる。生きている人間は、一生懸命だ、一生懸命に生を謳歌しようとして、なぜか意味の分からない仕事に明け暮れ、必死にテレビを見たり、人のうわさ話をしたりしている。人は頑張っている。きっとそうだろう。しかし、もっとやれただろう。地面にやっとはい出して1週間で死んで行く蝉と、90億年がんばって死んで行く地球、どちらも、最後はもう終わっちまうのかよ。と同じ感想をぼやくだろう。なんて面白いんだろう。どれも同じなのだ。終わって行くのだ。すべてが。そして何かのきっかけで始まり、また終わる。昨日飲んだホッピーの黒セットとテーブル、自分のすわっている椅子ごと宙に浮かび上がって、居酒屋の客ごと、世田谷ごと、地球ごと真っ暗な穴の中に吸い込まれて行くのだ。なんてことだ。クソをして、税金を支払いに銀行にいかなくちゃ。

2013.03.14

3・14

4月14日の日曜日、バカント、渋谷区神宮前3丁目20-13 で、私の3冊目の写真集、「そこにすわろうとおもう」刊行トークイベントをやります。
時間はまだ決めていません。もう見た人、まだ見ていない人を連れて、まだ見ていない人はとりあえず足を運んでみて下さい。当日は撮影の制作を指揮して頂いたカンパニー松尾さんとお話をします。撮影当時のメイキング映像もご覧頂けます。みなさんお誘い合わせの上ぜひいらして下さい。詳細はまた後ほど。

2013.01.21

1・21

 今日、赤々舎で予約分の本すべてに、サインを入れ終わった。明日中には予約分の本のすべてが赤々舎から、発送される事になる。前回までの本では、極、稀にだがサインを求められると、ページいっぱいに大きく名前を書きなぐっていたが、今回の本ではそうする気が起きなくて、本の1ページを作る様な気持ちで、ページのど真ん中に小さめに書き込んだ。書きながらサインてなんだろう、と思った。自分の痕跡であるが、その本に残したサインをもう一度自分が見る事は殆どない。どこかに自分の息のかかった痕跡達が本と一緒に送られて行く。書慣れている訳でもなく、練習もしないので、思うとおりに書けた訳ではなかったが、この本にお金を払ってくれた人達の事を考えながら、念を押すというか、気を彫り込む感じで、ぐっと書き込んだ。この本を出すのにすごく時間がかかってしまった。が、自分はまだ肉を触っているようだ。。死んだ肉ではなく、生きたあたたかい肉。
ほとんど内容も知らない状態でこの本を買ってくれた皆様方。うれしかったです。ありがとうございます。ツイッターもいいですが、読者カード入っているのでぜひ感想送ってください。よろしくお願い致します。

2013.01.12

1・12

 今日19時から、渋谷にある写真の学校という所で、在学生だけではなく、一般の人も参加できるワークショップをやりに行く。ちょうど三冊目の本を刊行するジャストタイミングで開かれるワークショップなだけに、どれくらいの人が集まるのだろうかと、思っていたのだが、現在、参加者は20人。。ということです。3冊目の内容もプロジェクターを使って70点ほど見せようと思っています。お近くで興味のある方は今からでも、どしどし、写真の学校の方へご連絡下さい。

2013.01.05

1・5

去年暮れから遅れに遅れた(作業上の問題で)三冊目「そこにすわろうとおもう」発売です。
昨年来から、どこの本屋で買えるんですか?どこの本屋で買えるの?どこの本屋にも置いてないんだけど、いつから本屋に並ぶんですか?あちこちの本屋を捜し回ったのに一軒も置いてないぞ一体どこに有るんだ?!青山ブックセンター本店に昨日行って探したんだけど置いてなかったよ。今買いたいんだけど、どこの本屋に行けば売ってるの?!など、問い合わせを頂いておりますが。


大橋仁写真集「そこにすわろうとおもう」は、


本屋さんでは一切、売ってません。


書店には置いてありません。 


本屋さんでは買えません。



買えるのは   赤々舎ホームページからだけです。




赤々舎ホームページより、ご予約を、お願い申し上げます。

すでにご予約頂いております、皆様、いいかげん、金返せ!このやろー!というお声も聞こえて来そうで大変恐縮です。申し訳ございません。1月20日頃から、順次発送作業が開始されます。
本年も何卒、よろしくお願い申し上げます。

2012.11.30

11・30

『そこにすわろうとおもう』
英題「Surrendered Myself to the Chair of Life」 人生(生命)という椅子に身を委ねる
タイトルを中川五郎さんに英訳してもらった。今回の本を中川さんにじっくり見てもらって、出て来た言葉。この英訳は中川さんしか出来なかったと思う。ぴったりだと思った。すごく、うれしかった。

2012.11.27

11・27

朝メールの確認、「見返りが期待できます。。」「美人とやれてお金までもらえるなんて、、」「ちんぽください、、」無数に飛び込んでくる迷惑メール。パリフォトから帰った出版社の人間から聞かされる「この写真がもの凄いのはわかる、でも、やっちゃいけないんだよなぁ~」どこぞの写真専門学校の校長先生がおっしゃったという。。。やっちゃいけないこと、、、昔一冊目の写真集を出したばかりの頃、実の兄が「じん、お前の写真集買って家に持って帰ったんだよ、そしたら嫁がそれを見て激怒してよ、こんなどうしょうもないモノが芸術だとかなんだとか、そんなものだとあんた、本気で思ってんの?!絶対子供の手の届く所に置いて置いたらしょうちしないわよ!!って嫁に言われて、天井棚の奥にしまわされたんだよ、じん。。」それ以来、その人は数年に一度たまに帰る正月顔を合わせて、こちらが挨拶をしても怒りと軽蔑に満ちた顔で黙って俺を視界には入れないよう努めているようだった。写真専門学校の校長と兄の嫁が、午後の優しく暖かい日差しの中、丸いテーブルに腰掛け小さめの白いティーカップに注がれたちょうどいい温度のアールグレイをゆっくり、ゆっくり、すすりなが、教育について談笑しているのが目に浮かぶ。三冊めの印刷作業は想像を超える困難に直面している。ちょくちょく機械の調子が悪くなり印刷物に筋の様なものが出てしまったりして、その都度修理専門の人を呼んで点検からはじめている。印刷会社の人達も東京組の我々も、すでに3度ほど、まさかの坂を登っている。しかし、七割印刷は終わっている、もう少しなのだ。

99年に青幻舎から出した一冊目の写真集「めのまえのつづき」を自分が必要になり購入すべく、青幻舎に連絡を入れた所、在庫が無いという。いつの間にか、誰にも、出版社にすら気付かれぬうちにひっそり静かに絶版になっていた。その後我がアシスタントが全国の書店に、完璧に隈なく聞き込んだ所、もはや新品は福岡に3冊しかなく、後はAmazonの中古を買うしかないという事だった。もちろん、その三冊はウチで入手したが、「めのまえのつづき」は13年もかけて絶版をむかえた事になる。最初から売れない本だという事はわかっていて、死ぬまで売り切れる事はないだろうとどこかで思っていたものが、ついに無くなった。あの本に再販は無いだろう。13年も売れ残っていた本の在庫が無くなると、まだこの世に存在はしているものの、もう一人の自分が静かに居なくなったようで、ちょっと不思議な気分だ。三冊目、がんばってます。もう少々お待ちを。

2012.10.26

10・26

先日メッセージでお伝えしました、私の3冊目の写真集「そこにすわろうとおもう」(赤々舎)の刊行予定日につきまして、当初11月初旬には刊行できる予定で作業を進めて来ましたが、今回の写真集、印刷作業が非常に難しく、印刷の完成日程が遅れております。正直、最初の段階での印刷作業のスケジューリングの読みが甘かったです。まったくもって反省致しております。400ページをなめていたのかもしれません。12月第一週には、刊行できるよう現在、信州長野の印刷所で毎日作業を進めています。印刷立ち会いの場で、最後のクリエイティブをみんなでやっています。すでに印刷が始まって9日目、本当は明日10日目で印刷自体は、完成する予定でした。しかし、それは全然無理でした。自分もこんなに印刷の立ち会いをしたのは初めてです。印刷作業は暗室で印画紙にプリントするのとはまた違った発見や驚きに満ちています。非常に勉強になる事ばかりです。印刷機から印刷されて出て来た、写真達が、今だ、今捕まえろ!と語りかけて来るようです。そしてその写真を捕まえて、やった!と大声を出してしまう様な印刷が、仕上がって来ています。お待たせして、本当に申し訳ありません。もう少々、お待たせしてしまいます。内容は保証できませんが、全力で取り組んでおります。ご理解のほど、何卒、よろしくお願い申し上げます。

2012.09.25

9・25

今回、短い期間でしたが、まったく中身を見ないうちからの沢山の購入、ご予約、本当にありがとうございました。

内容の保証は出来ませんが、正面から取り組んだ本です。

出さずにはいられなかった本です。

ベストな状態でお渡しできるよう、これから仕上げ作業をがんばります。

2012.09.22

9・22

9・21~23まで京都造形大学、東北芸術工科大学外苑キャンパス(港区北青山1-7-15)で行われている、the  tokyo art book fair

の赤々舎のブースで、大橋仁 最新写真集「そこにすわろうとおもう」の、先行予約を受け付けている。

店頭販売価格は2万円位の見込みのものを、明日まで特別に、1万2千円で買う事が出来る。

特別すぎる気がするが、「そこにすわろうとおもう」、すごく、安く入手できる機会なので、ぜひ。

23日24時まで(それ以降は絶対受け付けません)

akaaka.comで、メールでの予約も受け付けるそう。

件名「大橋仁写真集予約」冊数、氏名、住所、電話番号を送ってください。

この大安売り価格設定は、宣伝を兼ねての値段だそう。。です

さっき知りました。

2012.09.05

9・5

「やがて訪れる喪失」

時間がやがて、すべてを飲み込んでしまう。現在の科学者の大半の意見として、宇宙はやがて星も光も何も存在しない、全くの暗黒の世界に戻るという。すべてが無になる時が来るのだろう。地球も、宇宙も、自分もその方向に向かって日々時間をすすめている。すべてが真っ黒になるまでにあとどれくらいの時間がかかるのだろう。途方もない時間だろうけど、あっという間という感じもする。自分たちは自分の命と言う一つの宇宙の中で生きていて、それぞれの命と言う宇宙は、日々生まれ、また消えていく。やがて訪れる喪失、ブコウスキーの本の中に出てくる言葉。翻訳された言葉ではあるが、言葉の意味は感じる。ブコウスキーは作中35才女性の容姿の描写にこの言葉を使っている。明日無くなってしまうのではなく、やがて、無くなってく。このやがて、という言葉に魅力を感じた。時間を表現する言葉として、いいなと思った。ただ流れ落ちる時間という絶対的な存在の絶対的な約束事をこの言葉はいきなり魅力的にしてしまったと思った。人間はそれらを失わないよう必死になる。すべてが無くなるから、何をやっても無駄だ。というのでは面白くない。やがて訪れる喪失の前に、やりたいことがある。そこで人間がとる行動は、宇宙的に見て全くもってなんの意味もない行動だろうけど、無にむかって変化し続ける過程こそ、人間の一番美しい本質の姿が現れているような気がする。やがて、若さを失い、命を失う、やがて訪れる喪失を嘆くのではなく、それまでをどう生きるか、どのように生きたか、それを自分自身見たいと思う。

2012.08.31

8・31

 荒木さんに会った。10月に刊行予定の自分の作品写真集を見てもらうために。荒木さんに直接会って自分の写真を見てもらうのは、初めての本「目のまえのつづき」の時、1998年以来14年ぶりだった。荒木さんは酒はやめていたが、非常に体調良好のように見えた。18時40分から21時10分くらいまで、2時間半ほど一緒に居た、今回見てもらったのは396ページの写真集、最初に一気に見て、そのあと色々な話をしながら各部分を何度も何度も繰り返しめくっては閉じ、話し、まためくっては閉じ、話す。今回の俺の写真に対する荒木さんの気分やイメージを、荒木さん自身が言葉にして話す事で、細かく噛み砕きゆっくり飲み込んでいく様な、そんな見方だった。クスクス笑ったり、「何だこりゃ!」とかいったり、今回の俺の写真集を楽しみながら見てくれていたように思えた。本をめくりながら笑っている荒木さんの顔を自分はずっと見続けた、ガン見した、異常なまでに見つめていた。写真と自分自身が、荒木さんによって洗われているというか、済われる思いがした。よかった。うれしかった。最後「今日はいいもの見せてもらった」と言いながら荒木さんはタクシーに乗って帰っていった。タクシーが見えなくなるまでタクシーを見送った。

2012.07.22

7・22

自分の内側に降り積もって、積み重なった、不燃ゴミ。出すのは大変。最初は。11月で40歳になるのだ。ほぼ40年間分の不燃ゴミ、死ぬまでにきっちり出せるんだろうか。テレビ番組で出てくるゴミ屋敷の住人、まったくもって他人に思えない。なんとなく。しかるべき処分場は見つかるんだろうか。コツコツやるしかない。ゴミの無くなった家は綺麗なんだろうか。容易ではない。

10月に、7年ぶりに3冊目の個人作品集を、赤々舎から、出す事が決定した。タイトルは「そこにすわろうとおもう」にした。具体的な内容はここで言葉にしたくはないので、しない。命が生れて人が人生を始めるという事は、ある空間に、一つの場に、誰しもが何かに呼ばれて、用意されたその席に着くような感覚が自分にはある。前世だの、あの世だの、全く信じていない。しかし今日この場に、自分が生きていること、この世という一つの場所に、人類がそろって生きていること、自分はそこにすわろうとおもった。ということ。ページ数は396ページ、今までの倍ほどのページ数になる。値段など、詳細はまたご報告させて頂きます。みなさん、よろしければ、見てやってください。

2012.05.25

5/25

MacBookエアを破損して、買い直し。破損前に、何となく入ってしまったFacebook。開こうとしているのだが、ログインパスワードが必要で、パスワードを忘れたため入れず、パスワードを再登録するための再登録用パスワードが必要ということで、面倒くさすぎるので、私はもう、これを機にFacebookには戻らないと思います。元々Facebookを活用していたという事では全くなかったし、Facebook上ではこのまま放置状態になって、いるけど、いないかんじになります。Facebookで友達申請などしている方々へ、こんな感じです。よろしくお願い致します。

2012.05.18

5/18

 石垣島で撮影してきた元AKB48の小野恵令奈ちゃん、エレピョンの写真集が発売になる。女性の単体写真集として6冊目なのだが、南の島の砂浜で水着をメインで撮るというのは初めてだった。恵令奈ちゃんは、ただ元気とかただかわいいというだけの、普通の若い女の子ではなかった。確かに幼い顔に整った体は絶妙のアンバランスな魅力がある。しかし、それだけではない。とっぴな事を言ったりやったりすのは、若さからくる定まらなさというより、自分の中にある両極の感覚を本人も無意識の領域で表しているようで、彼女の心の危ういような弾力感が彼女の不思議な魅力に繋がっている様な気がした。自分の中で水着は、裸を撮るのとは全く違ったアプローチが必要で、水着という布一枚、薄皮一枚、この薄皮に不思議な世界があって、この薄皮をまとった女の子をどのように見せる事ができるのか、水着撮影の面白さを今回恵令奈ちゃんには経験させてもらった。とにかく面白い撮影だった。ぜひご覧ください。

2012.03.28

3/28

 そうか、これから地震がくるんだよなと思う。自分自身ただ生きるだけでも、大変なのに地震がやってくるのだ、そして、放射能がさらにふりかかって来るかもしれない。地震は天災でどうしようもないと思うが、これだけ来る来ると言われ続けている大震災を前にして、今だに原発を稼働させようと国は必死になっている。放射能は完全な人災。今からこの人災は防げると言う事は分りきっているのに、あれだけの被害を出したたった一年前の教訓があるいま、原発を動かそうとしている人間がいる。いったい、どうなっているんだ。経済の発展無くして日本の未来は無いと言う人がいるが、地震でもう一回、原発が爆発したら、もう経済もへったくれも無くなってしまうだろう。子供の頃、兄が、近所の駄菓子屋で買った大きな丸いあめ玉をうまそうにしゃぶっていて、それをのどに詰まらせ、窒息状態になり、母親が血相を変えて兄ののどからあめ玉をほじくり出した。ホ―ローの流しに鈍い音で青いあめ玉が落ちた、その前でうずくまって涙目になって咳き込んでいた兄は、起き上がると慌てて、ホーローに落ちたあめ玉をもう一度口に放り込みしゃぶりはじめた。あの姿を思い出す。

2012.03.17

3/16

満足する気持ちはいつも小さい。これは安吾の言葉、いつもこの言葉を思い出す。安吾の言う小ささとは貧しさに繋がっていて、人の心に満足と言う限界を作ることで起きる可能性の領域の限定を指す、そこが小ささ、貧しさに繋がっているのだと感じる。満足の先に伸び白は無い。欲望の薄い時代、世代?求める豊かさの質が変わって来ている事は間違いないだろうが、貪欲な人間が死に絶える事も決してないと思う。豊かである事が、楽しさや、生きる事への希望に繋がるのであれば、満足を手に入れる事で小さく、貧しくなって行くなら、自分は大きさを限定しない豊かさを求めて生きたいと、素直に感じる。大きさを限定しない豊かさとは、無限の欲望と、決して満足をしない貪欲な魂の事なのだろう。これはこれで、また一つの地獄なのだろうけど。

2012.03.12

3/12

記憶について、昨日は撮影の後打ち上げをやって久しぶりにけっこう飲んだ。途中から記憶が全くない。記憶が無いのは一時間半程の間のようだ、思い切り飲むと昔から途中で記憶は無くなりそこから自動運転が始まる。そうなるまで飲むのは最近では珍しい。経験のある人も多いだろうが、記憶が無い最中の自分の話しを翌日になってその場に居た人から聞くのだが、自動運転中の自分の事はけっこう好きなのだ。だから記憶がないのが本当にもったいない、しかし夜中の246の道の真ん中で大の字になって寝っ転がったりしていた事もあったらしいので、そのままお陀仏になっていた可能性も充分にあり、こいつは困ったものだとも思っている。いままでに何時間の自動運転をしただろう。自動運転中記憶が無くても寝ている訳ではなく、しかっり人と話したり行動しているわけで、そのとき見た人の顔、言葉、風景は、いったん眼と脳みそ、感情を通過している、だからそこでの記憶は今引き出せないだけで、脳みそのどこかにしまわれているはずなのだ。自分が行動し経験している事なのにまったくその部分が思い出せない、まるでもう一人の自分が夢ではなく現実の世界にふと現れる様で、その時の自分はどんな顔をしているのか見てみたいし、話しがしてみたい。いつか脳みそにしまわれた自動運転中の自分の記憶を開けたらいいのになと思う。

2012.01.14

1/14

真っ昼間に、太陽に向かってピラミッドがゆっくり上昇して吸い込まれて行き、太陽が爆発するのを眺める夢を見た。その模様を肉眼で、中継で、世界中、地球上のほとんどの人間が見つめていた。太陽が爆発したあと地球は濃く白いモヤに包まれ何故か明るかった。撮影で岩手、仙台、福島を巡っている。スタッフがガイガーカウンターをかざし放射能を測っている。これは現実。自分がしなくてはならない事をやろう。

2011.12.09

12/9

午前二時頃NHKをつけていたら、まあ、普通のおじいさんがインタビューされていて、ふと目を向ける、「よしわかった!と言うことで、私は、母親の胸を狙って撃ったんです、そしたら母親の胸の所から、血がびゅ~びゅ~飛び出したんです、そして、父親も、自分の額を指差して、ここを狙って撃てと言うんです、私は撃ちました、そして、さっきまで母親が座っていた場所に妹がしゃがみ込み、私の方に向かって目を閉じるのです。私は銃を妹に向けました、撃とうと思ったその時、妹が、お兄ちゃん、ちょっと待って!と言うんです、何をいまさらと私は思いました、しかし、どうした?と聞くと、妹はのどが乾いたと言うんです、お兄ちゃん、水が飲みたい!と言うんです、私は水筒のキャップ2杯分くらいの水を妹に飲ませました、妹は、あ~!!おいしかった!!お兄ちゃんありがとう!!もう大丈夫だからお母さんの所に連れて行って、と言うんです、私は妹を撃ちました」と言う話しだった。このお爺さん、身内を自分の手で3人も殺したひとだった、太平洋戦争証言者の番組。戦時の極限の現場が目に浮かび、引きずり込まれ、おい、どうする?と突きつけられたように、証言者の話しに体の神経が一瞬にしてカッと反射した。畜生!と思う。こっちはもう寝るっつうのに。かつて、日本人が引き起こした途方も無い戦争があった、いま、日本に戦争は無い。全ての教訓を無にして、またいつか日本が戦争をする時が来るかも知れない。そしてまた、生き残ったもの達が後悔を、伝える。今だに、世界で歴史は繰り返されている。人間は恐怖によって進化を遂げて来たと言う、最初は大型の肉食獣、サーベルタイガーに補食される側だった人間が、食われる事への恐怖を克服していく過程で。そして、今度は人間が人間を殺す事への恐怖を、人類が人類を滅ぼす事への恐怖を克服する過程にある。人類はこのおのれが生み出す恐怖を克服し進化を遂げる事は出来るのだろうか。

2011.11.22

11/22

今日で39才だそうだ、フェースブックなどで色々な人が教えてくれる。おかげで、子供の頃は自分の親ですら忘れていた様な事を、ここ数年誕生日になると、ばっちり認識する様になった。若い人には若い人の言葉が、年寄りには年寄りの言葉が、それぞれの世代にはそれぞれの言葉が有り、コミュニケーションがるんだろう。それぞれの世代感で同世代として繋がっている部分が人にはある。歳を聞いただけでお互いの大体の想像がつくと言う事はよくある。しかし、それがいったいなんだと言うのだろう。想像がつくから、分り合える?安心出来れば繋がり合える?何故繋がりを求めるのか、人が人に興味を持つのはごく自然の事だと思う、繋がった先で自分のお楽しみの領域を広げられれば楽しいだろう、しかし、今は自分が選んだ安心スポット領域のみを掘り下げているだけで、自分の新しい領域を広げている様には感じない。自分の枠の外へ。自分の枠を超えてさらにもっと知らない領域へ繋がりを求める。その事の方が、自分の人生においては豊かで楽しい事だと感じている。自分を壊す。また壊す。そしてつくる。また壊す。つくる、それの繰り返し。最後まで。いかなる形も、スタイルも、世代も、すべて無くなればいいのになと、思う。

2011.10.04

10/4

アシスタント募集

8月中に作業内容ややり方を仕込み、9月1日からアシスタント作業を開始、

まだ一ヶ月経たない9月末、やっと、決まったと思い現場でも紹介して回り始めた新アシスタントがもう辞めると言い出した。まったく、、こんなものなのだろうか。。「三年はやります!」と9月頭にはりきって決意表明、一ヶ月経たないうちに、「自分の写真を撮りたくなったので辞めたい」と言いう。こんなものなのだろうか。。。。。。。。。何か新しい取り組みに対する、想像力が、覚悟が、あまりにも浅く、軽い。本気や覚悟の意味について考えた事は無いのだろう。いったい、何の為に応募して来たのか。最近この手の人間が多過ぎる。続ける事でしか見えない事があるって事がまったくわかっていない。。時代なのか、ゆとり教育なのか、家庭環境なのか、最近の二十代は根本的な人間関係の構築について、思い違いをしている人間が多いと思う。いや、失礼。ウチに応募して来る人間だけに異様に多いのかも知れないが、自分にとって都合の悪い環境になった瞬間に、そこに留まって活路を切り開こうとするのではなく、ただ逃げ道ばかりを探り始める、追い込まれた時こそ、しっかり考えて執念深く行動するべき時なのに、そこで逃げを打つことしか考えられない。濃い人間関係を、暑苦しさや、ひつこい、面倒と捉えるのではなく、深く、強く、豊か、になって行くと捉え、このことの大切さに、いまの二十代は気付かなければならない。お互いの大切な時間を無駄にしない為に、きちんと考えて、心を決めてから応募して欲しい。

2011.09.09

9/9

半年前まで静かだった我が家の一帯が、突然騒音地帯と化してゆっくり寝れそうな朝も、容赦なく叩き起こされる様になってしまった。真隣の家が解体作業をはじめ、寝室の真横で重機で鉄骨を引きちぎったり、叩き潰したりするとんでもない、轟音が早朝から何日もおこりはじめ、一旦さら地にしたその場所に現在2軒の家の新築工事が日々進んでおり、何かを削る音切る音叩く音倒れる音何かのエンジンのうなる音人の叫ぶ声、そんな中、今度は真ん前の自動車工場が解体をはじめ、さら地に戻され、マンションになるのか、建て売りになるのか、真隣より敷地がでかいので、全然規模の大きな工事が始まった。工事の爆音もさらに大きく長引くだろう。いきなり建築ラッシュ。今朝は3台くらいのチェーンソウが、一斉にグワグワグワー!とうなりを上げ始め夢の中で窓から見えるお気に入りの木が切り倒され悲しい思いをして、目を覚ましたら実際窓から見える大きな木を目のまえで切り倒し始めていた、木の立っている場所はお寺の土地と言うのは知っていたが、その木の後ろにはひっそりとお墓が並んでいた。寝ている人の布団がめくれて思わず中が見えてしまった様な小さな驚きと納得があった。10年も住んでしまったのだから、そりゃ建物もたて変わるだろう、騒音とはまだまだ当分付き合わされそう。

2011.08.23

8/23

安吾の私小説論によると、作家自身の身に付いていない客観小説にいくら労力をつぎ込んで大作を書き上げたとしても、たった10~15行の随筆だか私小説だかわからない、身に付いた小文に力で劣ってしまうのは、私小説と言うだけで、すでに自分の人生が、自分にしかない人生が、身に付いて表現されてさえいれば、それだけで、すでに相応の力があり及第点は取れていると言う事。私小説でありながら力のないものはすでに、論外である。そして、真の傑作は客観小説の中から出現するものであるとも書いている、ドフトエフスキーがまさにそれだと。しかし、ドフトエフスキーの作品を私小説だと言ってしまえば、全ての小説は私小説になってしまうとも、言っている。安吾は私小説の強さを充分に理解してこう言っているのだと思う。それは作家の意地でもあるだろう。私小説であると言うだけで、すでに及第点が取れている、そして、完全なる想像の産物の中にこそ、人間の表現しうる真の傑作があるのだと安吾は言っている。自分はなにを見ても読んでもすぐ、写真の関係性に置き換えてしまうのだが、しかし、文章であれ、写真であれ、完全なる想像の産物など、有り得るのだろうか。また、完全なる私小説も有り得るのだろうか。人は、想像と現実の狭間を行ったり来たりしている、ただそれだけの生き物ではないだろうか。安吾の言わんとしている事は、自分なりには理解できるのだが、現代の人間、いや、人間と言う生き物自体、正気と夢が同居して生きている生物なのだから、客観小説と、私小説の区別はあるとおもうが、人は、夢を現実に体感したいと望んでいて、現実の様な感覚を夢でもう一度経験する。普通に道を歩いてい様々なイメージが頭をよぎる。私写真と言うだけですでに相応の力量が備わった写真は誰にでも今すぐ撮れてしまうわけだが、自分が見たいもの撮りたいものは、どちらかだけではない、夢だけでも、現実だけでも。両者が入り乱れているもの、現実のもう少し先にあるものだと思う。

2011.07.13

7/13

先週久しぶりに、撮影で浅野忠信くんに会った。髪もすっかり短くして、相変わらずイケテル男だった。浅野くんとは知り合ってからもう13、4年は経つ、会う度に、短い時間だがお互いの近況を話して、なんだか可笑しくなる。今彼はロンドンで撮影をしているそうで、すぐにロンドンに戻ると言う事だった。初めて会ったときから、彼はいつも真っ白で全くぶれがない。普段は何色でもない白でいる代わりに、いつだって何色にでもなれるという、不思議な素材で出来ている様な人だ。しかし、それこそが本当の俳優と言うものなのかも知れない。私はホモではない、しかし、彼に会うと何故だか抱きつきたくなるのだ。こんな事を思う相手もまた珍しい。

今月に入ってから、それぞれ別の撮影で2度仙台へ行った、街は完全に復活している様に見えた。しかし、空気中の放射能が東京よりは濃い様な気がして、まったく見えないし一切感じる事も出来ないのだが、なにか平穏な感じではない様に思った。しかし、街は人で賑わっている、ここに居る誰もが、家族や仕事生活の心配やしがらみが一切なければ、すぐにでもこの土地から出て行きたいと思っているのではないだろうかと思った、(自分には故郷がないので、郷土愛と言うものがない、どこでも生きれる場所が生きる場所と思う)しかし、家族や仕事生活がその土地にある、動きたくとも動けない、みな逃げる事が出来ない。仙台で暮らしている人達に対して無礼をするつもりは毛頭ないが、東京でさえ、もし一切の不都合が生じないのであれば、出て行きたいくらいだ。しかし、今の自分は東京を離れて生きて行く事はできない。離れたくとも離れられない、仙台の人々と状況はまったく同じなのだ。こんな星に住んでいたくないと誰かが言っても、地球の人々はまだ地球以外に住む場所がない。やはり、ここでも同じ。人は誰も、地球から逃げる事が出来ない。生きて行く為には、今いる場所をなんとかするしかない。あまりにも大きなリスクを背負いすぎていたと、誰もがそう思っているだろう。

2011.06.16

6/16

ほぼ10年ぶりに映画の撮影を担当させて頂く事となり、「カモメ食堂」や「マザーウォーター」の制作チームの最新作、「東京オアシス」の作業に参加させて頂いていた。撮影は6月6日朝4時半頃静岡で、すべての撮影が終了した。松本佳奈監督、中村佳代監督二人による演出。出演は小林聡美、加瀬亮、原田知世、黒木華、10月22日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、他にて全国順次ロードショー。当たり前だが、全く違った年齢や環境で育った人達が集まり、一つのイメージを形にして行くと言う撮影、非常に興味深く、なにより楽しかった。自分の写真作品集を作るときも感じるのだが、制作して行く過程から完成に至る時、それぞれの作品をとおして、それぞれに一つの言葉が思い浮かぶ。この作品にもそれを感じた。人が人と生きて行く為に、もう一度人を見つめなおす。なにか丁寧な眼差しのようなものを感じた。

2011.05.18

5/18

2月にカナダで撮影した、石原さとみちゃんの写真集が書店に並ぶ。彼女は可愛くなった、とか最近変わった様に言われたりするけど、正直そうは思わない。いきなり変わったのではなく、彼女の中に元々あったものが最近になって、人に分りやすく彼女の外見と言う表面に出て来ただけだ。しかし、人は精神や環境の変化でその外見を変える事は間違いない。人は変わる。良くも、悪くも。いま石原さとみという一人の人が、自分の人生にチャレンジしようとしている。若くして有名になってしまった彼女にしか分らない孤独と、苦悩があったとおもう。自分の人生に起こしたチャレンジが、これから彼女の人格に何を起こすのかは、誰にも分らない。しかし、まだ、ほんのわずかではあるが、彼女の変化して行く姿を近くで見る事が出来て、自分は幸運だったと思う。誰にでも変化は起こる、一瞬一瞬で人間は克明に変化していると思う。そしてだれもが人生にチャレンジしている。自分の変化には中々気付きにくいもの。でもそれを自分自身で感じ取る事が出来るなら、自分の命を味わっていると言う意味に置いて豊かな人生と言えるだろう。そして、誰かの人生が変化して行く事の目撃者になれたとするなら、それもまた幸運だろう。そして、その変化を、変化して行く自分の姿を、仕事として世にさらし、その事で誰かの気持ちを豊かにできる人がいるとすれば、そういった人こそ人前に出るべき表現者、(女優)だと思う。彼女はそういった女優なのだ。その姿は人の希望にもなるだろう。さとみちゃんのこの本をぜひ、見てみて下さい。

2011.05.12

5/12

 アシスタントの突然の蒸発、佐賀県での撮影後福岡に移動。トイレの便器に買って一週間の携帯が水没、夜、羽田空港から首都高3号線に乗って帰る途中、トラックで移送される10頭程の牛を追い越した、茨城ナンバー、節電で電気を消された高速の道の上、暗闇の中ただ、静かにゆらゆらと輸送されて行く生物。おとなしくやさしい顔つき。彼らは生まれてから死ぬまで人間の事情等何も知らないで過ごす。しかし、生きている。どこでどんな状況であれ。突然、同じ生き物であるという同類意識が表れトラックに向かって、牛よ!牛よ!牛よ!と叫ぶ。牛にではなかった、頼りなく彷徨う生き物を、応援したい気持ちになったんだろう。

2011.04.25

アシスタント急募集

 アシスタント、かなり急募集!!!!

元気でやる気があり、誠実な人。30才くらいまでの、男子女子、普通自動車免許(マニュアル)を持っていて、スタジオ経験がある人(優)採用一名。

基本的にウチはやる気、と、ど根性、重視です。今回はスタジオ経験が無くても、やる気のある人は念のため、一度メールを送ってみて下さい。

大橋仁の作品集はきちんと見ている人。今回の募集に関しては、履歴書を送るやり方はとりません。

大橋仁のホームページ表紙の『MAIL』から、氏名、生年月日、履歴、志望動機(重要!)連絡先等を、メールで送って下さい。

こちらで面接を希望する人に関しては、こちらから直接連絡をとらせて頂きます。ちゃんと頑張れる人は、ちゃんと長い付き合いをします。

一緒にやりたい人、待ってます。人が決まり次第募集は打ち切ります。よろしく~!

大橋仁

2011.04.13

4/13

子供の頃、銭湯に行くのが好きで、友達と行く事も多かったが一人でも近所の銭湯によく歩いていったものだった。ある日のまだ明るい夕方、開店直後の銭湯だった、その銭湯は一番奥に大きな浴槽があり、その浴槽に向かってまず両サイドの壁に向かって洗い場が並んでいて、やはり浴槽に向かって中央に人が両側から座れる低い壁の洗い場が一列ある、かなりオーソッドックスな形をしていた。脱衣所から風呂場へ入った瞬間に浴槽に向かって左サイドの壁側の洗い場に、背中一面の和彫りの入れ墨が目に入った、男は入り口側であるこちら側に背を向けたかっこうで、大股を開いてうんこ座りの様な形でしゃがみ込んでいる、相撲の立ち会いの様にもみえる。その体制であごを思い切り突き出し微動だにしていない、そして、これまた全身にびっしりと入れ墨の入った男が、同じ様に大股開きのうんこ座りで、その真向かいに同じ様にしゃがみ込んで、顔がぶつかりそうな距離でお互いを凝視している。トラブルの匂いが満ちていた、その時銭湯の中に、そのヤクザ二人と、まだ毛が生えていない小学生の自分と3人しかいなかった。何かが、はじまりそうだった。いやもう始まっているのかもしれなかった。浴槽に向かって恐る恐る彼らの横を通り過ぎようとしてもう一度よく二人を見ると、一人のヤクザが一人のヤクザの髭を剃っていたのだった。鬼の形相で。二人してしゃがみ込んで。弟分が、兄貴の肌を傷をつけてはならないと必死の形相で剃っていただけだった。それにしても、なんで兄貴分まであんなに力を入れて前のめりにしゃがみ込んでいたんだろう。なぜ人に剃らせたんだろう。裸の男同士のからみ、入れ墨と入れ墨の絡み、兄貴分と弟分(たぶん)の絡み、そこにいた二人のヤクザという組社会と、たまたま入って行った毛も生えていない小学生のボク、という一般社会との絡み、ただまるっきり違うもの同志が居合わせただけだった。刑務所の風呂場ではあたりまえの光景だったのかも知れないが、その頃のボクには想像すら出来なかった。ただ、その模様の事をさっき思い出した。

2011.04.08

4/8

すべての欲望が満たされた状態が成立したとして、そこでまだ生きていたとして、大した時間があなたには残されていなかったとして、あなたの瞳にはいったいなにが映るんだろう。夕暮れの斜光にゆれる木々の葉の光か、まぶたは開いていても何も見ていないのかもしれない、瞳に映るのが誰かの顔であれば、自分はうれしいだろう。以前にもこのホームページで載せた、宮沢賢治の遺稿をもう一度、読みたくなった。「眼にて言ふ」

「眼にて言ふ」

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているですからな

ゆふべからねむらず

血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう清明が近いので

もみじの若芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがつて湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば

これで死んでもまづ文句もありません

血がでているにもかかはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言へないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほつた風ばかりです

堅治のこのあまりにも素朴な遺稿には人間の本質が、人の姿が綴られていると思った。死が静かに寄り添い、死から見つめられながら、堅治は空や風を感じていた。人は、このように、自分が吐いた血の中に沈んでいても、最後の瞬間まで溌剌と、清々しく生きて行く事が出来る細胞なのだと思う。堅治の遺稿が、いま、また力強く感じる。

2011.03.30

3/30

グーグルのニューストピックスより  
旧ソ連で1986年に起きたチェルノブイリ原発事故について、人や環境に及ぼす影響を調べているロシアの科学者アレクセイ・ヤブロコフ博士が25日、ワシントンで記者会見し、福島第1原発事故の状況に強い懸念を示した。博士の発言要旨は次の通り。

 チェルノブイリ事故の放射性降下物は計約5千万キュリーだが、福島第1原発は今のところ私の知る限り約200万キュリーで格段に少ない。チェルノブイリは爆発とともに何日も核燃料が燃え続けたが、福島ではそういう事態はなく状況は明らかに違う。

 だが、福島第1はチェルノブイリより人口密集地に位置し、200キロの距離に人口3千万人の巨大首都圏がある。さらに、福島第1の3号機はプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を使ったプルサーマル発電だ。もしここからプルトニウムが大量に放出される事態となれば、極めて甚大な被害が生じる。除去は不可能で、人が住めない土地が生まれる。それを大変懸念している。

 チェルノブイリ事故の最終的な死者の推定について、国際原子力機関(IAEA)は「最大9千人」としているが、ばかげている。私の調査では100万人近くになり、放射能の影響は7世代に及ぶ。

 セシウムやプルトニウムなどは年に1-3センチずつ土壌に入り込み、食物の根がそれを吸い上げ、大気に再び放出する。例えば、チェルノブイリの影響を受けたスウェーデンのヘラジカから昨年、検出された放射性物質の量は20年前と同じレベルだった。そういう事実を知るべきだ。

 日本政府は、国民に対し放射能被害を過小評価している。「健康に直ちに影響はない」という言い方はおかしい。直ちにではないが、影響はあるということだからだ。

=2011/03/27付 西日本新聞朝刊=
政府は、今の混乱をただ表面上、取り繕えばそれでいいのか。この危機的状況を緻密に分析して、なにより命を最優先にするべきではないのか。いま、パニックさえ起こらなければ、この後、何年何十年に渡って、おびただしい数の人間に健康被害や、死者が出てもかまわないと言うのか。放射能だけは、助け合いや、励まし合いが通じる相手ではないだろう。

2011.03.29

3/29

いまや、日本人の最大の関心事は、被災者の救援はもとより、原発事故による放射能の拡散状況だろう。ニュースでは今だにのんきに明日のどこそこは天気でしょう、雨でしょうなど言っているが、とてもそんな場合じゃ無いと思う。今知りたいのは天気や花粉情報より、昨日、今日どこにどれくらいの放射能が飛んで明日の風向きではどこにどれくらい、放射能が飛散するかという放射能予報だと思う。東京福島間の距離を遥かに超えたアメリカ大陸で今回の事故で放出された放射能物質が確認されてるのだ。福島から、たった250キロくらいしか離れていない東京に一体どれほどの放射能が降り注いでいるのか。福島県やその近隣にどれほどの放射能がバラまかれているのか。太平洋を隔てた、遠いアメリカ大陸の比ではない事くらいは分る。お天気レーダーじゃなくて、放射能レーダーつくって今日の放射能の動きを見せるべきだ。海外では「この原発大惨事が起こっているのに、日本人は驚く程冷静に行動している」など、言葉的には表現しているらしいが、裏を返せば、ここまでひどい事態が起こっているのに、疑いもせず、一言の反論もせず、よく黙っていられるな、と日本人の危機感、警戒心のなさに、あきれかえっている様に感じる。テレビに出てくる学者やジャーナリストがこれだけいるのに、「落ち着け落ち着け、ただちに健康被害はない、冷静に行動しろ」など、ただ言葉上、今現在を取り繕うだけで、この段階で一人も、今後の日本の原発のあり方について、原発反対廃止を口にする人がメディアに一切出てこないのは、おかしい、不気味すぎる。

2011.03.12

3/12

 スーパーで夕飯の食材を迷い、上司に叱られ、借金に追い回され、病に祟られる。人間の生活の中で、宇宙の事なんてどうでもいい、しかし、昨日宇宙の力で、我が家の鍋のふたが棚から落ちて割れた。宇宙の力で、日本は一瞬にして麻痺した。宇宙(空間)の力のまえにその時、上司は居なくなり、借金もなくなり、病すらその存在を消す。全てのものは生か死か、いや、有か無か、という、2つのうちの1つ、と言う存在でしかなくなる。人は宇宙の前では、何かの細胞の一粒と変わらない。誰かのテキトウな憶測や、誰かの勝手なロマンに酔せてもらいたい等まったく思わない。ただ、すべての表面的な皮をはがした、有と無の世界の姿を、単なる現実の世界を、自分のこの目で見たい。誰かに見せてもらうのではなく、自分がそこへ行き自分でしっかり噛み砕きよく味わってから飲み込みたい。人の世の真実など目に見える世界の中には、どこにも無い。しかし、ただここで生きていても、ただそこに宇宙は有る。あの、ビニールハウスをのみこんでいった津波の姿をみて、恐怖よりも、生死を超え、ただ、存在として有か無だけを突きつける宇宙の姿を感じた。原発が爆発して、たとえ、地球が無くなったとしても、宇宙だけは、いや、宇宙が無くなっても、無が、そこには有る。それは、人間の世界なんかよりヨッポド確かな現実なんだろうと思う。で、細胞の一粒として、ロケハンの後、今日も悩んだあげくに、ラーメンと餃子と、炒飯と白飯を食べ、写真の構成をこれからやるつもりだ。

2011.02.22

2/22

 最近、一人の女優の写真集の撮影をさせて頂いたのだが、やっと、本の写真構成の作業が終った。平均気温ー15度の極寒撮影の中でも、彼女は強かった。状況的に、一番厳しかったんじゃないかなと言う場所で、彼女はカメラに正面から向かって来た。極寒で強風が吹き、真っ白の氷河の水平線の向こうに真っ赤な太陽が沈もうとしていた。撮る人と写る人。長い間ではない、ほんの一瞬である。集中した感情が一瞬ぶつかり合う。うれしくなった。丸6日間、寝る時以外ほぼ撮影しっぱなしの撮影旅行だった。自分は撮影時いつも、レンズを通して、老若男女、被写体には勝手に心で話しかける。話しかけている内容は撮影が終わるのと同時にほとんど消えてしまう。自分でも何を話しかけていたのか、おぼえてはいない。その瞬間の気分や感覚だけが体に残る。それで、いいのだと思う。それにしても、あれやこれやと、毎日何かしらをペチャクチャと、心で勝手に彼女に話しかけていたと思う。本当に貴重な6日間になった。刊行のタイミングで詳細をこのHPにもアップするので是非、見てみて下さい。

2010.12.29

12/29

今年はかなりしっかり目に大掃除をした。普通の掃除ではなく、大掃除なのだから普段掃除しない所も掃除するのだ。なんだか、今年は去年よりは年末感がある。奇麗になった窓ガラスからおもてを眺めるのは本当に気分がいい。これも、年末大掃除の後いつも思う事だ。なんとも、早い一年だった。もう春、もう夏、もう年末、ふと思い出すと今年一番多く思い浮かんだ事は、「ああ、こうやって人生あっという間に終るんだろうな」と言う事だったかもしれない。ちょっと何かするたびにそんな事を思い浮かべていた。時間が両手からざらざらと流れ落ちていくのを感じるから、人生時間がきっちり限られているからこそ、本当に意味深いというか、味わい深いと言うか、歓喜と絶望がその為にきっちりと存在感を示す事が出来るわけで、生きて何かをすばらしいなんて感じる事が出来るのも、時間と言う存在が、一つ一つをきっちり終らせてくれるからだろう。いつか終わりの無い世界がやって来るのだろうか?そんなものが来たひには、キャハハハハハってなるだろう。何を考えているんだか。先日、インポッシブルプロジェクトスペース、にて行われていた展示が終了した。ご来場頂いた方々より、思っていたより沢山のご感想を頂き、本当に嬉しかったです。全てのメールを隈無く有り難く拝見させて頂きました。誠に、ありがとうございました!!!正直来ないかと思ったけど、皆さんの行動力に日本もまだまだ捨てもんじゃないと本気で思いました。何一つ明るい兆しは無いけど。心は軽い。来年は写真集出します。見て下さい

2010.12.11

12/11

ローソンのベイクドチーズサンド、が美味過ぎる。いま、中目黒の(インポッシブルプロジェクトスペース)にて、写真を展示している。東京での写真展示は東京都写真美術館以来、約3年ぶりになる。今回の展示は、ヨーロッパのフィルム会社インポッシブル社が日本に拠点を作ってその会社のお披露目の意味合いが強い展示会(出展作家はインポッシブル社の白黒フィルムを使うという縛りがある、倒産したポラロイド社のフィルム生産設備を買い取って第2の新しいポラロイドフィルムの復活をもくろんでいる会社)なのだが、荒木さんと一緒の展示と言う事もあり、実は気合いが入った。実は荒木さんと一緒の展示は人生初めてであり、今年の暮れも押し迫ってきて、小さな展示だが自分的には今年最大級に嬉しかったりするのである。森山大道さん、荒木さん、佐内さん、長島百合枝、私の5人展である。荒木さんは、出展前、「このメンツじゃ、女の裸撮ってんの俺だけだろ?」と関係者におっしゃていたらしく、もし自分がその場に居たら「荒木さん、私もヌード撮ってます。」と小さな声でお伝えしたかった。何故か、オープニングパーティは開かれず、今回の展示に関して、誰にも会っていないのでなんか展示している感じがあまりしないのである。そして、またまた反響がほぼない。もちろん嬉しい感想を聞かせてくれた人も居たのだが。それ以外、噂もきかない。こんなにひっそりやる意味ってあったのかな、など考えてしまうが、自分は嬉しいからいい。お時間の許す方、是非ご覧頂きたい。この5人での展示は、もうこれから、ずっと無いと思う。そして、見てくれた方、率直な感想を私のホームペジまで送ってくれればなお、うれしい。展示している写真に対してまったく反応が無いと言うのは、本番中のミュージシャンのライブ会場に観客がまったく居ない状況と同じだ。ベイクドチーズサンドの感想も是非。

2010.12.02

12/2

ツタヤでセックスアンドザシティ2をレンタル、今日は思考力がいつにも増して低下している、レンタル料金を払いながら何故か、自分はずっと半笑いだった。自転車に乗ろうと思った時も、半笑いは止まらなかった。セックスアンドザシティ、連続テレビものを見てしまった初めての作品だった。連続して行く物語を見るのは時間がかかる、たとえそれが面白くなかったとしても、人生のある時間と労力をその物語を見る事に使うわけで、その物語はイメージに残る。人間関係も一緒で、一緒にいても前向きになれない人間と過ごしてしまった、ある一定以上の期間と労力に対して人は、大体は否定しないだろう、あれはあれで、いい所もあった、ある意味あれがあったから今の自分が居る、いや、おもしろかった、など、完全に逆をイメージに刷り込んでまで、たわけた時間を過ごしてしまったダメージをカバーしようとするものだ。セックスアンドザシティ2を自転車のカゴに入れて走る、今日は思考力もなく、体力もない、この街にまる9年住んでしまった。ツタヤの帰り道にいつも通りかかる喫茶店がある、一度も入った事がないその喫茶店の店先にある、シチューの写真、たぶん見るたびにちょっとうまそうだと思っていた、しかし、どうせ大した事はなそうだ、しかし、万が一と言う事もある。。そんなどうでもいい小さな賭けは後回しだった。それに、いつも写真から目をはなした瞬間にシチューの事は忘れていた。今日、9年分の溜った小さなイメージが爆発した。ついに、この街に住んで丸9年にしてはじめて、あの喫茶店に入った。万が一はなく、味の事は考えない様にして、大盛りで頼んでしまったライスと、シチューを心を無にして口に放り込んだ。このシチューに一体何円の経費がかかったんだろうとか、オヤジを眺めながら、日本中の喫茶店のほとんどのオヤジはこの味に納得しているんだろう。と思うだけだった。自分で、目をつぶってもこれ以上のものが絶対作れる。1250円、これでこの街に思い残す事は無くなった。セックスアンドザシティ2、さあ、見てみよう。セックスアンドザシティ2はあのシチューよりは美味しかった。                                          

夜中にツタヤにDVDを返しに行った。雨が降っていたので、傘をさしながら自転車を運転していた、信号が赤になったばかりで、小さな交差点にライトバンみたいのが、入って来るのが見えた、自分の自転車の方が早いと見て、信号を無視して交差点を突っ切ろうと思ったのがだ、ライトバンの方が交差点に入ってくる勢いがあったので、交差点直前で急停止の判断をして、自転車のハンドルのブレーキをぐっと握った、ブチッと言って、ブレーキのワイヤーが切れた。右手で傘をさして、左手だけで片手運転していたのだ、とっさに両足を地面に伸ばして自転車を止めようと、よろめきながら交差点内に入った、ライトバンも急ブレーキをかけた。なんとかぶつからづにすんだ。自分の自転車が停車すると確信を持って握りしめたブレーキのワイヤーが切れた。車とぶつかるとかよりも、信じきっていたものに、あっさりと裏切られたというか、絶対にあってはならない、想像を超えた現実の出現に衝撃を受けた。ワイヤーがブチッと切れた瞬間に、脳の血管が束で切れたようだった。思考回路も切れたのだろう。死と言うのはやはり決定的に鮮やかなものなんだろう。死は自分の前にこのような形で現れる事もある。この様な場合、人はただ驚いているうちに、この世から居なくなっているんだろう。

すごく期待していた「クレイジーハート」がつまらなさ過ぎた。「レスラー」しかり、最近若い監督が人生を語る映画を作っているが、まったく物足りない。人生を知らない人間は人生を語れないだろう。奇想天外な物語やびっくり仰天のパズルの様なトリック、算数ができれば、思いつくだろうけど、観客の心を引きずり倒すのは、器用な頭の良さだけではないだろう。みた後で動けなくなる様な映画が最近は本当に少ないと思う。

テレビで、競馬番組をやっていて興味はないけど、たまたま見ていたら、現役を引退した馬が草を食っている映像が流れていた、競馬馬になって勝ち続ければ、殺されて馬刺やウインナーにならずに、広く整備のゆきとどいたどこかの牧場で、若い雌馬相手にヤリまくりやがて老衰する事が出来る、ようするにそんな大した馬が実際いるって事だ。大した馬だ。

2010.09.21

9/21

今週の日曜日、9月26日、15時から2時間、千駄ヶ谷のビブリオテックにて、映画監督の瀬々敬久さんとトークショウをやらせて頂く。このホームページでもすでに告知しているが、瀬々さんの最新作「ヘブンズストーリー」の公開記念トークショーとして、瀬々さんと瀬々さんの最新作映画について、お話が出来ると思う。今回瀬々さんとお会いするのは五年前の自分の二冊目の写真集発売記念のトークショー以来で、久しぶりなのだが、瀬々さんはもう長い間人間語を喋っていない日本でも稀な人だと思っている。自分は人前で話しをする場合ほぼ飲酒をする。五年前も同じく全然しらふの瀬々さんに対して自分だけガブガブ酒を飲みながらお話をさせて頂いたのだった。瀬々さんが寛大な方で本当によかった。またお会いできるのが楽しみだ。しかし、お相手が瀬々さんだし、どのような会になるのか、自分でも正直さっぱりわからない。恐いもの見たさの方、大歓迎。

2010.08.27

8/27

このところ、写真集の編集作業がはかどらず、プリントの束が積み上げてある机の前に座り込んで、ただボーっとしたりしていた、あっというまに2~3時間たつ。写真を貯めすぎた事を今さら後悔する。数が多過ぎて、編集の方向が色々出て来てしまって、こねくり始めるのだが、全然頭がはっきり見えてこない。全体像としてはすでにはっきり頭の中にあるのに、細部に近づきはじめるとこうも出来るこうも出来ると、選択肢が増え収拾がつかなくなってくる。集中力が落ち始める、しばらくボーットして止めたりする。こういう事は今までにはあまりなかった事なのだが、はかどらないというのは人のせいではない。むずむず苛つく。なんて事を昨日わざわざインタビューしにきてくれた、編集の方々にだらだらぐちっていた。しかし、不思議なもので、ぐちったらなんかすっきりして、編集作業の調子が良くなった。ページ公正までやっていたのだが、この所突如、更に過去の写真も掘り下げたくなり、もう一度写真の絞り込み作業をやっている。過去がくっきりはっきりフィルムに焼きつけられている。自分の写真集は過去をとにかく整理して行き、その後今の自分のテンションに結びつかせようとする傾向がある。過去を今、眺めるのだ。繰り返し見るのだ。過去に気付かされる事がある。時間が端から流れ落ちて行く。フィルムを絞り込むうちにもう一度その瞬間を撮影しているような感覚になる、人の頭の中で過去は消えて行くが、フィルムの中には、揺るぎなく定着している。感情と時間をただ眺めたり、放り投げたり、積み上げたり、切り離したりくっつけたりしている。

2010.08.13

8/13

20年ぶりに財布を持つ。高校生の時に財布を落としてから、財布を持つ気になれなかった。札は銀行の封筒、小銭はポケット、カードは手帳に挟んで持ち歩くのがそれからの習慣になった。気に入る様な財布がなかったし、カードを手帳に挟んでおくのはまったく落ちる事もないから問題はなく、毎年色を変えられるから気に入っていた。しかし、現金の入った封筒自体を酔っぱらって二度程落とした。銀行の封筒に名前を書き込んでいたわけでもなく、万が一警察に届いた所で自分の物だという証拠も無い。もちろん、誰のものという証拠の無い、お人好しの現金入り銀行の封筒が警察に届く事は無かった。財布を買おうかとようやく思い始めた。気に入った財布が無いのなら、とにかく特徴の無い安い財布が欲しかった。ニュージーランドの土産物屋の棚の下の方で、安くて理想的に特徴の無い財布を発見購入、財布がある生活も中々いいかもしれない、名古屋に行って来た、今年の名古屋は薄ら涼しくいつもとちがって拍子抜けしてしまった。名古屋での二泊三日の撮影を終えて戻って来たのだが、ふと、先日の瀬戸内寂聴さんの撮影の時の事を思い出す、いつでも死ねるという覚悟のある人が長生きして、生きたい生きたいと思う人があっさり死んでしまう、という事をおっしゃっていた。自分は今までも死にたいわけではまったくなかったが、去年の夏あたりから生に対する妙な執着心が湧いてきはじめていて、これはこれでいいかと思うのだ。しかし、瀬戸内さんとの撮影が始まるとき瀬戸内さんはこちらを向くなり、イスに座って足をブラブラさせながら「あなたすき~」といいながらニコニコしている笑顔が今もはっきり思い出される。瀬戸内さんとはどこか通じ合うものがあったような気がしてしまったのだ。88才になられたという事だったが、人間歳は関係ないんだなとつくづく思った。財布はいつまで持つだろうか。

2010.08.08

8/8

ニュージーランドでの撮影から戻って来た、南半球、だったらしい。梅雨が空け夏本番のタイミングで、季節が反対の真冬の世界にすっ飛んだといかんじ。日本が寒い時に暑いとろへ行く事はあったが、日本が暑い時に寒い場所へ行く事はめずらしかったので、ちょっと不思議な感じがして面白かった。ニュージーランドはかなり本格的に肉文化で、三食しっかり肉が出てくる。もともと肉ずきな自分としては非常にいい感じだったが、さすがに食い過ぎな気すらした程だった。南半球では便所の渦が日本と反対だとか言うが、その確認は出来なかった。自分が行った場所はニュージーランドの中でも小さな方の街でクイーンズタウンという街だった、スノーボードやスキーなど、スポーツ目的の観光客の集まる場所だった。まちの四方は峻険な山に覆い尽くされ、山々は今まで一度も見た事も無い巨大な大男達が黙ってしゃがみ込んでいるようで、恐ろしさすらあり、ただぼーっと見つめてしまうのだった、自分の見ている現実とは思えない程だった。走る車の中から一瞬見えるガソリンスタンドで給油をしているカップル、彼らはそこで確かに生きて、自分とまったく違った人生の時間を積み上げ、進んでいる。その土地で生まれその土地で死んで行く、自分とまったく違う場所での人生。ガラガラのバーガーキングの中のカウンターの前に居るカップル、背の高い痩せた男はベージュのようなグレーの様なジャケットを着ていた。二人はそこそこうまく行っているという感じにみえた。彼のジャケットの事が忘れられないのだ。遠くから一瞬見えただけなのに、彼と彼のジャケットは街を囲んでいる山の様に、自分がはじめて見るもののように思えた。同じ瞬間をまったく違う方向を向いた人間達が生きている、それを、もう一度見せてもらったようだ。

2010.07.13

7/13

台湾に撮影で行って来た。台湾に行く前日に扁桃腺が腫れ始め、薬を飲みながらの撮影となったが、薬が強力だったおかげで台湾の強力な日差しにもなんとか負ける事は無かった。暑さは別として台湾の湿気にはノドが助けられたのかもしれない。今回ほど薬の力を感じた事は無かったかもしれない。抗生物質と消炎鎮痛剤様々。野菜ジュースをしぼって飲む習慣もそろそろ丸一年。去年は死にたくなかった。今もまだ死にたくはない。明日の朝までこの部屋にただ寝ているだけでは、自分は死なないだろう。よほどの何かが無ければ、じっとしているだけでは人間は突然ガラスが崩れ去る様に死んだりはしない。しかし、そのことが不思議だと思った。明日、崩れ去る様に死ぬ事は無いのかと。この世の不思議さと味わいはつきる事が無いようだ。台湾の街角でも不思議で不思議で不思議で、今ここも不思議で不思議で、ただただこの世を味わっていたい。死んだ人間の書いた文章を読み、死んだ人間のつくった音楽を聴き、今生きてそれらに教えられ、対話している。この浮き世の空気と一緒に口の中にいれて味わっている。生きる事を、味わう事を自分は止める事はできないだろう。

2010.06.17

6/17

一昨日、大阪撮影から帰ってきて、結局大阪でうまいもの食わなかったなと思う。難波と梅田に行ったが大阪の町の独特なアクの様なものが以前より薄まっている気がしてちょっとさみしかった。下町は違うだろうが、結局都市はどこも同じようになってしまってうんだろう。シャワーを浴びながら生きている意味のある人間などこの世に何人いるのだろうとか、ふと考える。ピカソ?モーツアルト?深くではない。ふと、である。昨日の夜中に珍しく兄貴から電話があり、深夜の緊急連絡かと思い、死んだのはどっちの親だ?と、ちょっとドキッとする。しかし、なんて事なく電話をしてきただけだった。話せば話すほど、兄弟でこんなにも違うものかと感じる一方で、逃れられない血のつながりを感じる。今日、水木しげるさんを撮影させて頂いた。自分は今草木のような状態で、心はいたって穏やかな状態だといっていた。水木さんを撮影中、植田正治さんの事を思い出した。偶然にもお二人とも鳥取の出身で、そして、思い返せば仕事で85才以上の日本人を撮ったのは多分植田さんと水木さんのお二人だけだと思う。お二人はどこか雰囲気が似ている様な気がした。水木さんは120才まで生きると言っていた。その言葉が自分には嬉しく思えた。ご自分の事をサラリーマンみたいなもんですよと言っていたのも印象深かった。
シャワーを浴びつつ、物理学者のホーキング博士の言葉を思い出す。地球以外に知的生命体が存在すると思いますか?という記者からの質問に、「地球にすらまだ知的生命体が存在しているとは思わない」と答えていた事を思い出す。一枚ものの皮に包まれた液体が、人間の姿。その様にも思う。

2010.05.22

5/22

昨日は朝五時から夕方五時45分まで、熱海で撮影をした。週末ですら人気のまばらな熱海は今が行き時の様なきがした。空もよく晴れてくれて良かった。ずっと三冊目の写真集の為のプリント作業をしている。まだ荒くセレクトした段階の写真を荒くプリントしているのだが、そのプリントも3000枚を軽く超える状況でまだ終りそうにない。この後に本番のプリント作業をする事になるが、この下準備的な作業だけでも中々終らず一つのイメージを形にする為にどれだけ時間がかかるんだろうと、うんざりするが、プリントを眺めると、色々なイメージや、興奮が自分に現れる。しかし、本格的な詰めの作業に入るまでは、一々テンションを上げない様にする。これも、楽しいと言えば楽しいのだが、とっとと3冊めを出したい。早く出したくて仕方がない。そして、その後もポンポン作品集を出したい。がしかし、今回もそう簡単には行かなさそうだ。絶版なったといわれている、コダックの印画紙をヨドバシで14箱見つけて、全て買う。印画紙すら簡単に手に入らなくなり、無くなって行く状況、あー早く出したい。

2010.04.13

4/13

月末になってカレンダーを見ていると思う事がある、31日の次の日が1日、一ヶ月間毎日その月のカレンダーを見る、あーだこうだと考える、31日が過ぎて1日になれば、もう永久にその月のカレンダーを現在の進行表として利用する事は無い。記録として残す事はあるにしろ。過ぎた月のカレンダーはほぼ用無しだ。体や記憶の中に時間の流れは続いているのに、時間というもの自体は、完全に終り、進み続ける、どんどんと端から過去のものとなって行く。時計では流れが速過ぎて中々実感出来ないのだが、カレンダーは一ヶ月というまとまった時間の経過を一ヶ月間を通して毎日見るから、目で実感してしまう。31日から1日へカレンダーをめくるとき、この決定的で決して解く事の出来ない過ぎて行く、時間という謎の不思議さ、を思う。無個性な一枚のカードがただ裏返っただけのようにどうということの無い事なのだが、そのカードの内容は、裏返るたびに、すべてがまったく変わってしまって、ただ裏返り続け、変化し続ける。昨日ひさしが死んだと友達から連絡が入る。もう20年くらい会っていない、小学校から高校まで同級生で、中学、高校と同じバスケット部で、電車での方向が同じだったので中学生ぐらいまではしょっちゅう一緒に帰っていた、ひさし。高校生になってからはほとんど一緒に遊ぶ事もなくなった。3年程前高校卒業ぶりで自分のホームページに、「きみの作品を購入しました」とメッセージを送ってくれたひさし。自動車を運転する時、自転車に乗る時、外を歩いている時、背後から突然殴られて、ゴッ、という頭蓋骨の中でにぶく響く音と共に真っ暗になって地面に倒れる様な感覚を、日常的な瞬間、瞬間、に感じる。これはきっと、バイクの事故や、実際に人から殴られたり、ぶつかったり、そういう体験が脳に記憶されていて、危ないから気をつけろと、外に出歩いている毎瞬間に衝撃を受けた記憶を教訓として脳みそが勝手に再生して注意を促しているかのようだ。今だにしょっちゅう、いまでも、このゴッというにぶい音が頭の中でひびく。怯えている間もなく。突然やって来る衝撃。友人や知人の死を聞かされるといつもこの音は無意識に再生されるようだ。死はそのように突然やって来て、時はまた全てを端から過去にしていく。しかし、今はひさしの死が時間より明確に自分の精神に影響を与えている。ひさしの死について電話で友達と話した、そしてこの3年程で、同じく高校を卒業後は一度も会った事の無い友達なのだが同級生が他に2人も亡くなっていた事を知った。一度に3人の同級生の死を知る。彼らの死、自分の死。死はとっくに自分ごとなのだが、生を感じるのと同じくらい死を感じる。

「死をポケットに入れて」というタイトルでブコウスキーは短編小説を書いている。その中で、ブコウスキーは自分の事を「丘の上からゆっくりと転げ落ちる湯気のたった糞のようだ」と表現している一節がある。人を表現した言葉の中でも特に好きな言葉の一つだ。「死をポケットに入れて」それにしてもいいタイトルだなと思う。死を推奨するという意味とはまったく逆の意味で、死を正面に捉えながら、明るく、だだ直線で生きる、中々簡単に出来ることではないと思うけど、そういう考え方がとても面白く感じるから自分は好きだ。三冊目の写真集に向けて作品のプリント作業を日々やっているが、量が多くて中々終らない。頭のなかではとっくに出来上がっている写真集をプリントや構成することで1ページづつ組み立てて行くこの行程が、とてつもなく面倒で、また強い興奮を感じる。

2010.03.26

3/26

昨日千葉へロケハンにいっていたのだが、行きの車の中、アシスタントの運転で後部座席で完全に熟睡していると、一瞬重力が軽くなってそれから体が左右に大きく振られ両サイドの窓枠になすすべもなく4、5回おもいきりぶつかった。雨の中、高速道路を走っていた、驚いて飛び起きすぐに車を路肩に停車させて、何事かとアシスタントに聞く、「すみません、気を失っていました」「気を失ってたんじゃないだろう、ただ寝てただけだろう」というと「はい寝ていました」という。彼は運転中に完全に睡眠に落ちてしまい瞬間的に目を覚ましたが、車の方向が車線から外れてしまっていたのに気付き、急いで軌道修正しようとしたが、高速運転中に急ハンドルをきったために逆に車が言う事をきかなくなりハンドル操作ができなくなって、車の片輪が浮き上がり車体自体がバウンドして横転寸前の蛇行運転になったのだ。その時高速道路は空いていて後続車両や、横を走る車が無かった。自分の車だけではなく他の車をも巻き込む大事故になる所だった。高速道路だったので車が横転していれば死んでいただろう。こうやってある日突然人は死んでしまうものなんだろう。なぜか車の運転が異常にへたなアシスタントがつづき日常的に車の中で「あぶない!」「とまれ!」「左から車が来てる!」など叫び声を上げつづけている。へただからこそ日々運転しなければよけいにヘタで、危なくなる、アシスタントにはもちろんシートベルトを必ずさせているが、自分は今までも、なぜかシートベルトをするきになれない。今まで、18才の時に一人でスペインの山で遭難しかかって自分の判断ミスで死にかけた事があって、その時の事は今思い出してもゾッとするし、昨日の事もまさに同じ感じであった、しかし半面、人生に腑に落ちるようなきもするのだった。うんあれは、死んでたな。

2010.03.24

3/24

2月に行われた、清々しい、宮崎あおいちゃん出演の「アースミュージック&エコロジー」のCM撮影に始まり、移動の多い一ヶ月半だったがここ数ヶ月つづけている自分で作る野菜ジュースと玄米食がついに効き始めたのか扁桃腺が腫れることなく上海より帰国。上海は5月の万博をひかえ今、好景気で乗りに乗っているという感じだった。もともと巨大な人口の中国が乗っているのだからその勢いは凄まじいものがあった。巨大な高層マンション群に高層ビル群、高速道路にも、ライトアップが施され、上海は人や色や光に溢れていて、街全体がキラキラと光る大きな泡の様だった。2000万人がこの都市に居るというが、この街の本当の住人というのはたった一週間程しか滞在しなかった自分の目からは一人も居ないのではないかと思えた。貧富の差はますます大きくなり、経済や人間同士の関係性のバランスはとっくに崩れている。しかしバランスのとれていないもの程面白いものは無い、崩れたバランスの中からこそ這い上がってくる強い力が生まれる。中国に馬力の差を見せつけられたような気がした。力は単純にカッコいいと思う。中国オンエアーのCM撮影の為に上海に居たのだがその合間に、今回はデジカメを持って行って街を撮影した。最近はデジカメで街を撮るのが面白い。ロバートフランクがむかし、撮影に使われる機材によって表現力に違いが生まれるのはおかしいとして、その当時作品撮影用としてはあまり使われていなかったインスタントカメラで作品撮影をしていた事を思い出す。この一ヶ月半の間に訪れた屋久島の縄文杉も数千年の間の気候や環境の変化に対応し続け今なお生き続けている。ずっと使って来たコダックの印画紙が突如として発売中止となり、今後のプリントの環境の為にはじめてフジの印画紙を試し始める。自分が撮影者として生きて行く為に必要な事は、何が変化しても対応していかなくてはならない、そして、なにはともあれなんでもいいから、まづ撮影。撮る事をまず先頭の中心に置くだけだと思う。フィルムやデジタルの話しはその後にする事だと思う。高校生の時に草月流で生け花をやっていたのだが、草月流の創始者の勅使河原蒼風が「もし花の無い荒野で生け花をやれと言われたら自分は土を生ける」と言っていたが、これもまさにロバートフランクと通じる考え方だと思う。何を使うかではなくて何を行うか。デジタルやアナログ、経済や、人間関係、すべてのバランスの崩れた瞬間や場所に新たな感覚の地震や、津波が起きる。とんでもない何かが起こり続けている。そんな所にこそ何かがある。と感じてしまう。

2010.02.11

2/11

仕事で屋久島に行って来た。千何百年も生き続けている生き物がいるという事だけで驚きである。あの島の森は他のどの島の森とも違う、特殊さがあった。環境さえ整えば、自然も人間も長く生きる事が出るんだろう。その環境も屋久杉自体も想像を超えすぎていて、手を合わせて拝むしかない感じでだった。登山をしながら撮影をして、いい空気を沢山吸った。たしかに気持ちがよかった。宿に戻り大浴場で湯船につかると一人の男性客が「こんにちわー」と挨拶してくれた、こちらも挨拶を返すと、しばらくたあいのない世間話になった、そしてその人が「そう言えばこの旅館は、あのう、作家の林芙美子が一ヶ月程滞在して、あのう、なんちゅうたかな、漢字二文字のやつ、、ほら、えーと、あ、浮雲!浮雲をここで書いたという事らしいですよ」と教えてくれた。林芙美子は、自分の母方のおじいさんが短い結婚生活お送っていたとも、同棲生活をしていたとも聞かされている人だった。林芙美子自身、文学的叙事詩という文章や放浪記でおじいさんの実名を出しているとい事だ。おじいさんは田辺若男という名前で新劇の俳優であり、詩人だった。松井須磨子、島村抱月らと芸術座を創設して演劇を始め、石川啄木らとプロレタリア文学詩集を出したり、NHKの朝の連続ラジオドラマにはかなりの初期に俳優として参加したりとかなり、活動的な人だったようだ。戦時中戦争に反対してしまい完全に仕事を干されてしまい母姉妹を含めかなり苦労をしたという事だった。たまに、ふとこんな時にあのおじいさんが生きていたらなんて言っただろうと考えたりすることもある。このおじいさんに、自分は会った事が無いのになぜか近しい何かを感じてしまうのだ。屋久島の旅館の風呂場で会った事のない自分の祖父の事を思い出した。

2010.01.31

2/3

マイケルジャクソンの「ディスイズイット」を見た。去年の公開時期から今年40才になるミュージシャンの友達からも、「大橋くんあれみたか?マイケルジャクソンのレットイットビー、あ間違えた、ディスイズイット、あれ凄いぞ」と言われてから、凄く見たかったのだが、マイケルのテンションはあくまで、リハーサルのレベルなので、きっと本番だったらもっとすんごいことになってたんだろうなと、想像しながら見るしかなくて、がっかりした。本当に1ステージだけでも本気のマイケルの姿を見たかったなと思ったのだが、実はツタヤなどで今も販売のみだと思うが並んでいる「ライブアットブカレスト」という92年のルーマニアでのマイケルジャクソンの現在の所唯一のライブDVDがあって、「ディスイズイット」にがっかりしたのも、すでにそれを見てしまっていたからなのである。「ライブアットブカレスト」のマイケルは凄まじかった。マイケルの本気具合、コンディション、その他全てが一丸となって隙がなく、32~3才の脂がのりきったころのマイケルジャクソンがいきなりトップギアで仁王立ちして現れ、そのテンションは終るまでまったく落ちることはなかった。マイケルジャクソンといえば私生活の事や、ゴシップばかりが取り上げられていたが、そんなものまったく見たくはないのだ。見たいのは、本気のマイケルの姿であり、ステージの圧倒的なマイケルの姿なんだと思った。こんなにマイケルマイケルって自分が言う事自体よくわからないのだが、とにかく、「ライブアットブカレスト」は「ディスイズイット」よりよかった。仕事で沖縄に行ってきた。沖縄は気温が20度前後で、熱くもなく寒くもなく自分にとっては最高に気持ちのいい気候だった。沖縄のホテルで夜中、寝ていたのだがノドがすごく乾いて目が覚め、近くに水がないことに気付き、とても起き上がって水を自動販売機に買いに行く気にはなれず、目のまえにあるバナナを剥いて寝ながら口に入れた。暗闇でカラカラに乾いたノドにバナナの甘みと水分は意外と心地良かった。しかし、それでもノドの乾きは抑えられず、沖縄にしか売っていない玄米ドリンクを、一気のみした。玄米ドリンクは、冷えた甘酒の玄米バージョンという感じで、これも渇きを癒すような浸透力のある飲み物ではない。しかしそれで強引に寝た。4年ぶりくらいの沖縄は以前よりなぜか近く感じた

2010.01.16

1/16

暮れから体調がおかしくなって、悪夢の年越になり、今週はやっと本調子にもどった。今週は佐内さんの個展会場でのトークイベントや、滅多に無い事だが、自発的にネイキッドロフトでのAV難民総決起集会を見に行ったり。夕方以降が何かと騒がしかった。昨日は、ロシアに住んでいる日本人の友人のロシア人の友人が来日しているので会って欲しいという事で、その日本人の友人の英語のうまい妹と、ロシア人の友人(名前はディーマ)と3人で食事に出かける。四谷でお好み焼きを食べた後、新宿で焼肉を食べ、東松原の妹の家へ、妹宅で酒盛りが始まり、妹のアメリカ人の亭主も帰宅し、ワインをがぶ飲みした。妹の亭主のデビッドはチャールズブコウスキーが好きで、その点非常に意見が合う。ワインングラスに数回赤ワインが満たされたあたりで、数年ぶりの自動運転に切り替わり、記憶が消える。目覚めると、デビッドと一緒にベッドに寝ていた。会話は完全に英語だったが、一言も喋れない自分と、ディマ、デビッド、妹は非常な盛り上がりを見せたようだ。もう誰も人間語は喋っていなかった。一人早起きしてしまって、そこいらで、布団をかぶって寝ている彼らは寝ながらにして、満足な夜を思い出した様に、やわらかく笑っているようだった。記憶は無いのに体に楽しさの余韻が残っていた。頭がガンガンしたので早朝にウコンの力8本を飲み、握り飯を2個食べた。こんな調子で人生も終るんだろう。今週はよく人に会った。人に会う事はとても楽しかった。もっと出かけて人と会いたくなった。自分は賑やかな所が好きで、コミュニケーションが好き、楽しい事が好きな、普通の男なんだと思う。ずっと、豊かな事を求めている。豊かさとは何だろうと思う。今週気になったのは、個性や人間性に時代性や流行があるかの様に、言う人や、そいった傾向を感じたのだが、個性や人間性は、流行の様に終ったり,突如とした新型の発生などは絶対にないと思う。歳をとって老いて行く事はあっても、個性に流行や時代性は無いと思う。強くて豊かな個性は死んでも変わらずにこの世に留まると思う。世代交代だとか、終って行く人なんて、誰一人いないと思う。とりあえず、誰しもが死ぬまでは続き続けるだけだと思う、、人が終ることはない、、誰かを、軽々しい単なる流行目線で終らせる事はあってはならないと思ったし、そう言う事こそが本当に貧しい事だと思った。

2009.12.31

12/31

今年一番印象に残った一言と言えば、フランシスベイコンのインタビュー集の中に出てきた、「結局人体はある種のフィルターなんです」という一言だった。もちろん、それで人間のすべてを言い当てているとは思わないが、よけいな事を究極に排除して行くと、人間の人体の命の形というか、人間の命の特性を見事に、一言で表現している言葉であり、フランシスベイコンという人は人間の本質をよけいな感情や理屈をあっけなく排除して何処までも精密で、精確に、見つめていたんだなと思った。見つめていただけではなく、ベイコンはすべての瞬間を深く味わっていたような気がする。瞬間瞬間を深く味わえるなら、瞬間瞬間に味わいを発見できるなら、人生はどれほど興味深くどれほど驚きに満ちているんだろう。人生を楽しむというのは本当はこういう人間の使う言葉なんだろうと思った。ちょっと前に読んだ、坂口安吾の「信長」の中で、信長が自分に謀反を企てている、家臣に対して言う一言がある。信長が城主を任せている家臣の城に突然一人で訪れる場面がある、城内はすでにその家臣の側に寝返っている、信長にとっては敵のど真中に一人で乗り込んだという状況である。信長一人の突然の訪問に、すでに謀反に心を決めて身構える敵家達は硬直している。信長はもはや敵となった家臣をぞろぞろと従え、そのまま城の天守閣まで登り、しばらく景色を眺めた後、そこに座りこみ、腹がへったと茶漬けを所望し、平然とつづけて三杯を平らげる。信長「おぬし今ここでならワシを殺せるが、何故殺さん」家臣「今は、まだ時期にはございません」信長「うむ、己もやっと正直にものが言えるようになったか、それは褒めてやる。では正直にものが言えるようになったところで、今度は正確にものをもうせ」という内容だった。(言葉のやり取りなどはうろ憶えなので、テキトウ)とにかく、この言葉が新鮮だった。まったく当たり前の事なのに。必要な瞬間に必要な事を、必要な分だけ、正直に、正確に、口にすればいい。我にかえって、反省した。まったく引き締められたような想いだった。「正直に、精確に」自分の作品で来年どこまでそれを出来るだろうか。

2009.12.26

12/26

クリスマスだったらしいが、今夜も一人家にいる。自分に子供や家族があったなら、多少は何かをしたのかもしれない。いや、生まれた家では元々そういったイベント事はほぼやった事がなかったので、兄も同じ状況であるから、子供のときから我々兄弟はクリスマスなど特に興味もなかった。正月に関してはお年玉をくれたが、共働きの両親であり、訳ありの親父でもあったので、誕生日などはみんなで、忘れているくらいだった。12月に入り、いつもの扁桃腺が腫れてヤレヤレと薬を飲み始めたが咽の痛みが尋常ではなく、扁桃腺炎歴20年以上の歴史の中でも最高と思われる程の痛さ。やっとそこから抜け出して10日も立たないうちに今度は、急性胃腸炎になり、ふたたび強い腹痛と下痢、悪寒と怠さや、微熱がびったりとくっついて離れない、それが治りもしない状態でボーットしている所に今度は左目が真っ赤に充血してゴロゴロし始めて、今度は眼科へ、眼科の、年老いた女医に、「うわ~!!はやり目だぁ!!とりあえず院内感染したくないから早くウチの病院から出てってもらいたいの!」と席を立ち上がりながら、完全にバイキン扱いされ、鏡を見ると顔の左半分が死んでいて、右半分は生きているような顔をしている。しかも、その眼科の駐車場を出る時この5年間一度もやった事のない、車の引っ掻き傷をつくってしまう始末。今までかかった事もない病気に一時期に二度も襲撃され、この状況を楽しむ領域に入った。昔からこういう最悪な状況に落ちいると、自分に対してこの野郎と思いと、さあどうしてくれようかという比較的冷静な思いが現れ、結果かえって馬力が出るから不思議だ。今年の暮れの事はずっと忘れないだろう。すでに目以外は復調しているが、明日の仕事の為に今日は早寝だ。

2009.12.12

12/12

この前、自分の事が掲載された雑誌で、「大橋仁は今では珍しくなったデジタルカメラを使わない写真家の一人」という言葉で紹介されている。取材を受けたときは間違いなくそうだったのだが、雑誌が発売された頃にはすでに、大橋仁写真事務所に時代の波が押し寄せていた。デジタル35ミリカメラはニコンD3X、6X7サイズはフェーズワンP45プラス、を導入。それに付随する、マック等のデジタル処理、管理環境も、ギンイチカメラの推奨する現在の最高機種で揃えた。最近では仕事の撮影の多くをデジタルでやっている。もちろん、フィルムの仕事の撮影も昨日して来た。新しく、フィルムカメラのペンタ6x7を購入しようかとも思っている。デジタルの質感を感じてその性能や便利さに驚いたのだが、フィルムとの質感の違いも鮮明に感じる。確かにデジタルの世界は整理され、すべてが整っている様にも感じる。フィルムの乳剤の中には、整える事の出来ない未知の部分がまだ残されているように思う。しかし、もはや、どちらが良くてどちらが良くないというレベルの問題ではなく、デジタルとフィルムを同じカテゴリーで考えるのではなく、別のカテゴリーとして捉える事の方が正しいのではないだろうかとも思う。「フィルムに比べてデジタルは~」「デジタルに比べてフィルムは~」というような話しがよく出るのだが、この会話はあまり成立しない様に思う。それは、両者は決定的に違うものなのだから、それらを比べても意味がないと感じる。なにより、デジタルであろうとフィルムであろうと、それを使う人間に問題があるだけで、表現方法としての道具であるカメラ自体はどちらでもいい筈。これから、ドンドンデジタル撮影をして行こうと思う。そして、フィルム撮影もドンドンやろうと思う。とにかく、大橋仁写真事務所、デジタル時代が遅ればせながらやって参りました。

2009.11.28

11/28

言葉の重要性と、言葉のみを信じない気持ち。人とコミュニケーションして行く時、自分はすごくそれを思う。すべてではないが、言葉の持っている力は知っている、しかし、言葉を超える力を、言葉以外が持っている事も知っている。言葉以外とは、行動の事。その人間の最終的な意思表示は、行動にでる。自分はとっくに、言葉を信用しなくなっていたのかもしれない。言葉が不必要だとも毛頭思わないが、行動のみ自分が信じる事の出来るものなんだろう。

猫は家につくという、犬は人につくという、犬のさくらが死んで、一ヶ月以上がたつ、さくらの骨は今我が家にあるのだが、さくらは今、我が家には間違いなくいない。さくらは死んで、体の自由を取り戻したとたんに、自分を捨てた人間達の住む家の庭に、いつも座っていたソファの上に一目散で走って行ったに違いない。ろくな事をしてやれなかった俺の事など見向きもせず。この家に来て死ぬまでのさくらの姿は、決して忘れる事が出来ないだろう。他人が自分を行動でしか判断しない様に、自分もそうである、犬のさくらにいたっては、最初から言葉すら持たずただ、行動しかとる事の出来ない命だった。さくらは、誰も恨むことなく、自由に今あの家の庭を、テーブルの下を走り回っているだろう。

アシスタント募集について
以前、アシスタント応募者からの電話に出た時、「おおはしひとしさんのアシスタント募集を見てお電話をかけたんですけど、、」という人間がいた、根本的にこいつはアウト。そして、名前はかろうじて知っているのだが、大橋仁のアシスタントを希望しておきながら、大橋仁の写真集を見た事がないという人間がかなり多い。これも、有り得ないと思う。そんなにテキトーに誰でも良いという感じで、自分の人生の大切な何年という時間を良くも知らない誰かのアシスタントとして使うものじゃ無いと思うし、そんなテキトーに応募してくる人間にこちらも時間を使う事はできない。ダメなら辞めればいいというような冷やかしや、志望動機がただ写真で食べて行きたい、といったような応募はやめて欲しい。なぜ、大橋仁写真事務所なのか、はっきりしていなければおかしいと思う。お互い人生の時間を使い合うのだから、テキトーな関係の始め方をしたくない。

2009.08.23

8/23

22日、玉川大花火大会が賑やかに執り行われた中、花火大会には目もくれずに薄暗いスタジオにて執り行われた大橋作品テスト撮影に足を運んで下さった皆さん、本当にお疲れやまでした。そして、ありがとうございました。なんつっても、5時間ちかくかかったからねえ。途中、みんなが帰り始めるんじゃないかと思いちょっとハラハラしました。今回のテストは本当に大事なテストであり、このテスト撮影の出来が、今後の撮影に大きな影響をあたえるものでした。皆さんのご協力に答えられるかどうかは正直まったくもって、分りませんが、私の撮影に大きな力をあたえてもらえた事だけは確かであります。私は、今日来てくれた人を信じます。来なかった人は信じない。という訳ではまったくもって、ありませんが、なにか、そこに居た人を、信じます。何を信じるのかも、まったくもって分りませんが、信じます。ポートレイト撮影をした人達へ、必ず、プリントしてプレゼントします。時間はかかりますが、待っていて下さい。二年か三年先、いや、もっと先になるかも知れませんが、待っていて下さい。きっと、そんなにはお待たせはしません。とにかく、大勢のご参加本当に、心から、ありがとうございました。

おっと、昨日のニートの青年。まず家から出なさい。そして、野宿でも、一人暮らしでも、ヒモでも、アメリカ大陸横断でも、バイトでも、なんでもして、まず、お家から出なさい。お家で写真は撮れないよ。

2009.08.16

8/16

作品撮影の為のボランティアの方の、募集を昨日の10時に一度、締め切りと
させて頂いたのですが、
更に、再度、協力して頂ける方々を募らせて頂きます。
テスト撮影は22日夕方の5時半から開始と決まりました。
現在、参加を希望してくれている皆さん、本当にありがとうございます!!!
当日は、少し長丁場になりますが、何卒、よろしくお願いします!
そして、締め切りに間に合わなかった、パソコンいじっているそこの貴方!ぜひ。
お待ちしています!!!

2009.08.08

8/8

現在、日々、3冊目の写真集、そしてその次の作品集に向けて、パチパチと撮影している。
のだが、困った。困った事に、
どうしても、作品撮影の為の、テスト撮影を、しなければならなくなった。
そして、その為にどうしても、(ボランティア)で協力してもらえる人の人数が、
必要なのである。60人をメドに(ボランティア!!)で、大橋仁の作品撮影の為に、
協力してくれる人を探しています。
8月17日(月)~25日(火)までの中のどこか一日で、所要時間は3~4時間
都内のスタジオである。
ヌード撮影ではない。
服はきたまま。3~4時間と時間はかかるが、
作業は単純、立ったり、座ったりするだけ。
学生諸君などは、夏休みの自由研究に、スタジオまで来てみないか?
もちろん、社会人の方も、自由人の方も、大歓迎!
来てくれた人の中で、希望者には、ポートレイトの撮影を私が、ぱぱぱぱっぱぱとやらせて
頂きます。そして、協力してくれる人には、ただ、ひたすら感謝申し上げます。
ぜひとも、力を貸して下さい!!
深々と、頭を下げ、何卒よろしくお願いします!!!!!
まずは、気軽に、私のアシスタントに、詳細な情報など聞いてみて下さい。
私のホームページのトップにも、連絡先は書いてありますが、念のため。

2009.07.30

7/30

顔を見る、撮る。人の顔、一度撮った表情は、二度と撮れない、人の顔は皮膚や筋肉、脂肪にいたるまですべて感情が動かしている。無感情な人がいたとすれば、その無感情に顔の筋肉は支配されている。時間を一瞬もとめる事が出来ないように、人間の感情の動きも一瞬たりとも止める事は出来ない。感情を止められないかぎり、時間を止められないかぎり、人の同じ表情を2度とる事は出来ない。同じ人間の顔を何度も撮影する場合、良くなるにしろ、そうでないにしろ、顔に表れる本人の感情の変化の途中を撮影している事になる。いかに無表情であっても、そうでなくても、顔を撮っているようで、感情を撮っているのだ。人間は変化のない所に閉じ込められれば息が詰まる。求める変化のスピードの緩急はあると思うが変化を人は欲している。しかし、その自分が、その人間本人がほんの一瞬ごとに、衝撃的な変化を遂げていようとはあまり考えないのかもしれない。息をする事を人は忘れるものだ。今日も、変化の中にいる、どう変化して行くのかはさっぱりわからない。できるだけ、いい一瞬に会いたい。笑っていても泣いていても黙っていても、自分が何かを創っていると思い込んでいる人がいる、そうではないと思う。発想のもとは頭脳だけではなく、感情なのだろうと思う。感情が何かとであって、何かが生まれるのだと思う。

「姿かたちとは、一体なんだろう、という疑問は常につきまといます。いわゆる姿かたちが、同じ姿かたちを保っているのはほんの一瞬だけなんです。まばたきをしたり、すこし目をそらしたりしてから再び見ると、姿かたちは変わっています。つまり、姿かたちはたえず浮遊しているようなものなのです」(フランシスベイコン、インタビュー、肉への慈悲より)

2009.06.06

6/6

醜態が平然と町中を歩いているのが見えた、自分だった。布団の中で目を閉じた瞬間に浮かんだ光景だった。ちょっと俯瞰気味の角度から自分を見下ろしていた、変な心霊現象とかそう言うのではない。単なるイメージだ。イメージの中で醜態が服を来て歩いていたのだ、それが自分だったという事だ。こんなに胸くそが悪い思いはとりあえず今年に入って初めてという程だ。すごく美味しくないものが腐っている姿を目の当たりにしたような、それよりもっと悲惨な感じだ。このイメージに対する、自分に対する胸のムカつきを止める為にここに書き出そうと思った。止める事は今だにできていないし、止まるのかは分らない。驚きの物体が出現した驚きの瞬間。イメージの中の自分は何処になにをしに行こうとしていたんだろう。そもそも、行き先などあったのだろうか。ま、どうでもいいか。

2009.05.21

5/21

今朝さくらの様子がおかしく、表情をよく見ると眼球が上の方へ、そっくりかえるように移動してはまたもどり、また上がりと、上下に大きくタテの振動を繰り返していた。さくら自体も動揺している様子だったので、体中をさすって、とにかく落ち着かせる事にした、しばらくそうしていると眼球の上下振動は徐々におさまり、二時間後くらいには正常に戻った。仕事の後、さくらを車に乗せて動物病院へ行った。朝、さくらの目の動きがおかしいと思った時、その目の動きをムービーで撮影しておいたので、それを病院で先生に見てもらった。眼球振という病名で、耳の方の神経からくるものと、脳の神経から来るものと、二種類あって、目の動きがタテに振れている事から、先生は脳から来る眼球振を疑っているという事だった。今日の症状が一過性である可能性もあるので、さくらを日々見ながら診察も受けていく事にした。レントゲンや血液検査、そこでできる検査を一通りやって、家に戻る。さくらは弱りながらも淡々と生きている。そして、自分の持つ生命力をギリギリまですべて使い果たして、最後は空っぽになってしまうんだろう。さくらは、ほとんど動けなくなってから、我が家にやってきた。最後の姿を見せにきたかのようだ。さくらがやってきて、一ヶ月以上経つが、さくらを我が家で引き取る事が決定する数日前に、さくらの夢を見た。なぜか白い砂地の広がる奇麗な、薄暗い海だか川だかの、水の底で自分は丸まってスヤスヤ眠る、サクラを抱きかかえて同じように目を閉じていた。とても穏やかな場所と時間だった。目が覚めると、自分は夢の中で、さくらを抱きしめていた瞬間と同じポーズをした状態で目がさめた。腕の中にさくらの毛の肌触りや体温がしっかり残っているようだった。自分はさくらを、夢の中で確かに抱いていた。今朝もさくらを落ち着かせている間、その夢の事を思い出していた。自分は別に、動物愛護人間ではない。しかし、不思議なもので、そうやってさくらの事はふと思う事がる。さくらは、俺の仲間なんだ。

2009.04.09

4/9

もう四月じゃないか、昨日の夜中は眠れずにじーっと天井を2時間ぐらい見つめていた、途中夢の中に入ったり、現実に戻ったり、どちらかといえば、苦しかった、しかし去年麻布で撮影した首つり死体の彼が現れて、やはり静かに緑の草むらでぶら下がっていた。それは見事な静けさで温度すら感じない世界、自分は何故だか、ぶら下がっている彼の金玉の下当たりに顔を突っ込んで仰向けになって寝ている。飼い犬のさくらや、小井田さん、なぜか、あがた森魚さん、瀬々監督、などが、まったく興味無さげにこちらを見いている。彼らもまた草むらの中に座り込んでいる。草の緑もまた、鮮やかだが、音も無く揺れていた。眠れない苦しさが緩み始め、夢の中に入り始めた頃体は楽になっていったような気がする。死ぬってこんな事なんだろうか、と思った。もうすぐ、衰弱して動けなくなった飼い犬のさくらが、世田谷の我が家にやってくる。十七年笹塚でともに暮らした両親が世話が面倒で飼えなくなって、捨てると言い出したので、自分が面倒を見る事にした。自分はさくらを捨てた、親を捨てる事にした。自分はさくらを、捨てない。絶対、捨てない。

2009.02.25

2/25

「かあべえ」を見た。この映画を見て、はじめに思い浮かんだ言葉、それは、ダイナミック、だった。この一見地味そうな映画から感じるこのダイナミックさは一体なんなんだろうと思ったとき、それは、映像やストーリーの奇抜さや突飛さではなく、やはり、人の精神、思い、からやってくる事なのだろうと思った。思想や宗教にではなく、ただ一つ、自分を信じるという事、それぞれ個々の人間である自分を信じた二人の異性の人生が一つの方向に重なっていく。「かあべぇ」は、誰か、家族や恋人を愛する物語ではなく、自分の信念を貫いた人達の、信念を描いた映画だと思った。最近映画館で見た「チェ」ゲバラに通じる世界観だった。ゲバラの革命的精神は世界へと向けられたもので、「かあべぇ」の己を信じるという信念は家族という小さな世界へ向けられたものだ、小さな世界へ向けられた信念だが、すでに革命的だった。信念を貫く生き方を描いた映画として、この二つには共通点があったと思った。「かあべぇ」は、人の心に本当の問いかけが出来る作品だなと感じた。小さくても消える事のない心の灯火のようなもの。何が人を生かすのか、何が豊かさなのか、何が生きて行く上での気持ちよさなのか。誰かの事ではなく、自分の事、それだけを、逃げる事なく正面から形にしていくその強い姿勢、生き方。山田洋次監督、やっぱり、すごいなあ、とため息が出た。

2009.01.01

1/1

どうやら、年が明けたらしい。今日は間違いなく一月一日。フルーツジュースを搾ってソニックユースを大きめにかけながら、二杯飲んだ。午後一時、暖房をかけなくても日差しだけで充分温かい。キーボードをたたく指が、腕の辺りが、うわずるように、微妙に震える。今年は珍しく時間を区切ってどうしてもやりたいことがある。やる。去年よりいい年明けのようだ。なんとなく力が腹の辺りを漂っている。昨日は一人で家で、歳を越した。神様にではなく、時間にお祈りをした。ただ、やりたい事が出来ますようにと。心、それだけが、自分の中にある。自分を動かしている。今年、いけるか

2008.12.08

12/8

撮影、浅草ロックス付近だった、下見の後、撮影まで時間があったので、お好み焼き屋に入り、もんじゃ焼き、お好み焼き、焼きそばを注文、どれもうまかった。撮影はもう10年来の友人のEさんと。すごく久し振りに会えて嬉しかった。あれやこれやと話した。Eさんは「あ~俺ももうすぐ40だよ、大橋くんいくつになった?」「俺も36っすよ、時間が過ぎるのは早いっすね~」内容は必要ない。Eさんの顔を久しぶりに見れただけでよかった。撮影後そのままかえる気がしなかったので、立ち並んでいる一杯飲み屋にふらっと入る。常連らしきおっさん達がすでにできあがっていた。午後4時、牛スジの煮込みとキムチコット、ホッピー黒、カウンターの一番端に座る。浅草は家族で初詣によく来ていて、ほぼ一年に一回しか来ないので、自分の中では浅草は一年間という時間の物差しになって、約17~8浅草の記憶がある。それにしても変わらない町だなと思う。一人ものや、老人男性などが昼から酒をあおっている。その為の店がいくつもある。下町に来るたびに、こういう場所に住んだら人間変わりそうだななんて思う。しばし、1人でぼーっとしながら酒を飲むのだが、横に座って一人酒を飲むおじいちゃんは、いったい何を考えているのか少し気になった。静かに飲み食っていた。お会計に立ち上がり金を払おうとすると、一人のオッサンが「オニイちゃん給料袋から金出してたら危ないよぉ、心配になっちゃう」と声をかけてくれた。高校生の時に財布を落としてから、小銭はポケット、札は銀行の封筒に入れて持ち歩いているのが自分の習慣になっているのである。「これが、財布なんですよ」というと、「へぇ~」といわれた。軽くお辞儀をして店を出た。たいして飲まなかったが気持ちよかった。もう一ヶ月もしないでまた浅草に来るんだなと思った。

2008.11.08

11/8

先日、撮影の直前にスタッフの一人がホテルの一室である撮影現場でテレビをつけた。アメリカ大統領選挙でのオバマの勝利宣言のライブ映像だった。マケインにオバマは圧勝していた。アメリカ初の黒人大統領誕生の瞬間だった。自分は何故か、オバマに対してあまり黒人という意識はなかったが、その意味はアメリカという国にとっては計り知れないほど大きな意味を持っているのだろう。もちろん日本人である自分には理解出来る筈も無いのだが、その勝利宣言の舞台上のオバマは感動的だった。戦争や経済の悪化で憔悴しきったアメリカ国民の前に一人の救世主が降り立ったかのようだった。恐ろしく分厚い防弾ガラスに囲まれながら演説するオバマ、「まだ信じていない人がいる、しかし、これは現実なのだ、これが、民主主義の力なのだ、」とオバマはかたった。ジョンレノンのイマジンの歌詞が思い浮かんだし、オバマの語る言葉はアメリカ人にのみ、語られている言葉ではなく、全世界に向けられている言葉の様にも感じた。印象的だったのはオバマを見つめる観衆の表情だった。オバマという希望の光の登場を、待ち望んで来た、オバマに希望を託し、喜びの中に祈るような熱い視線だった。彼らの表情がまた感動的であった。世界が変わるかもしれないというムードが強く漂っていて、見ているこちらにもそれは伝わって来るようだった。あぶなく涙が出そうになった。アメリカが変わるのだろうか。世界が、変わるのだろうか。戦争が終わるのだろうか。8年前まだ実家に住んでいた頃、ブッシュの大統領任命式のようなものをテレビでやっていて、そのテレビ画面を2本のブローニーで撮影した。世界の変化の始まりがそこにはあったと思ったから。しかし、有り得ないがその二本のフィルムは自宅の中で完全に紛失して、探したのだが出ては来なかった。自分のフィルムが手元から消えた事などその時が最初で最後一度きりだった。今だに悔しいのだ。

久しぶりに実家に立ち寄った。飼い犬サクラは、来年の4月が来れば17年生きた事になる、サクラは我が家の出来事を全て見ていた。犬の視線で。一時期ヘルニアで起き上がれなくなるほど弱っていたサクラだったが、お袋がどこかで聞きかじってきた情報により、グルコサミンを飲ませるようになり、その効果があったのかサクラは再び立ち上がる事が出来た。フラフラとしながら。ここ数年実家に立寄りサクラの顔を見るたびにこれが最後かもなと思いながら、何度もお別れを言ってきたのだが、サクラは今日も自分に迫っている死の気配など微塵も感じていないかのような表情に見えた。サクラはかわいいが、サクラをさわった手はよく洗わなければならない、その手で今日はお袋のにぎった、握り飯を食べたのだ。お袋の味として記憶に残る料理と言えば、鮭のおにぎりなのだ。おにぎりは料理ではないと言う人もいるかもしれないが、我が家では立派な料理だ。と言い切ろう。他に思い浮かぶものがないのだから。実家の近所の風景がこの半年で急に変わった、古い家が次々に立て直されたせいだ。町も時間の中で変わっていく、サクラはギリギリ生きている。アメリカの大統領が変わった、昔の女が子を産んだという、一人暮らしをして丸七年が経とうとしている。時間が、流れ動いていく。時間の動きを感じ取れないのはいつも自分だけのような気がする。間違いない、時間が移り変わっている。夏が終わったあたりから鈴虫の音が部屋に聞こえて来るのだが、この音が一年を通して聞こえる自然の音の中で一番好きだ。寒くなるにつれ鈴虫は徐々に死んで日に日に、数が減っていく、音のフェードアウトとしては究極に美しいものの一つじゃないかなと思う。しかし、強姦魔がハンバーガーにかじり付く瞬間にも時間は動いている。

2008.10.18

10/18

今日の事を書こうと思う。特に書こうと思う事はないが、風呂の後に綿棒で耳の穴をゴリゴリするのが習慣なのだが、最近その綿棒が固くなったような気がしてゴリゴリする度に痛い、石油の高騰で綿棒会社が棒に巻き付ける綿を少なくしたから棒が固くなったのだろうか。初めてコンタクトを試したのだが、乱視用のレンズはまだ眼鏡ほど自由に視度を矯正できないらしく、苦労して目にのせたコンタクトだったが普段かけている眼鏡より度の低いレンズしかなかったため、結局見辛くなり、家に帰るとすぐに外してしまった。眼科で付けたコンタクトを付けたままスーパーで買い物をしたのだが、眼鏡無しで外を歩いた事がここ十数年無かったので、その眼鏡無し感が新鮮だった。家の隣にある大学の一面きりのテニスコートでいつも聞こえる学生の笑い声、話し声、ボールの弾む音、ここに住んで丸7年になるが、その間ずっと聞こえてきた学生達の声になぜこんなに特徴が無いのだろうかと感じた、近くで聴く人の声は鮮明多彩に色分けが出来るのに、この7年間、中距離、で聞こえてきた声の種類は男3種類、女2種類位で、7年間同じメンツでテニスをやり続けているのではないかと思うくらい、少しの距離感で人の声からは特徴が無くなるものなんだなと思う。距離感。あまりにもリアルな幻が日に何度も現れる。その幻の風景の中にはたいてい自分がいる。幻ではなく、イメージなのか、幻とイメージ、一体何が違うんだ。どちらでもいい。いままでもそうしてきたように、その現れては消える風景の中に、自分は入っていく事になるだろう。そこでは、自分の中の幻やイメージの風景が、現実となった世界が広がる。自分の中で息づく幻を自分が現実に引きづり出す。反対か、現実にいる自分が幻の中に引きずり込まれるのか。空想と現実が同時に存在している所が表現物の有るところ。自分は今も、自分の中の幻、イメージ、の方へ歩いている。その風景の中に自分が入れる事をねがって。現実とは、ほぼ、辛いもの、現実とは人が人生を考える瞬間。考える事が殆どの人間にとってとても辛い作業。だから現実逃避というなの、遊びを人は欲しがる。現実から生きて逃げきる事は出来ない。だから、現実逃避はかえって現実を辛いものにしてしまう事の方が多いのではないだろうか。だから現実から逃げるのではなく現実を楽しみに変えていくしか無い、現実を少しでも楽しいものにする為には、バカでも、少しでも、なんとか考える事をつづけるしかないようだ。考える事を楽しむ方法を自分なりに体現して、なんとか編み出すのが、本当の意味での生活の知恵というものではないだろうか。表現物や作品とは他人が編み出した各々の生活の知恵、みな、他人の生活の知恵を知りたがる。見たがる。好奇心を持って。でも他人の生活の知恵はけして盗めない。自分で編み出すもの。シャレじゃないよ。自分にももっと生活の知恵が欲しい。

2008.09.29

9/29

最近なにか言葉を書こうという気がまったくおこらず、毎日を過ごしていた。そうこうしているうちに夏が終わった。時間が過ぎている。夏はジュディ・シルの2枚のアルバムばかり聴いていた。夏のはじめに中学校時代からの友人と電話で話しをしていて、その時その友がジュディ・シルはいいということですすめられ、早速CDを買って聴いてみたのだったがこれがよかった。ジュディ・シルは2枚目のアルバムを出した後、その売れ行きが著しく悪かった為にレーベルからクビにされて、人々からひっそりと消息を絶ち、誰からも忘れ去られて数年が経った頃、薬物の過剰摂取で34才で1979年に亡くなっている。十代の頃からドラッグ欲しさにあらゆる犯罪に手を染めていった、付き合っていた男と二人で銃をつかった武装強盗もしていたという。最終的には小切手の偽造で逮捕され少年院に送られ、その少年院の中で、音楽に対する考えを身につけていったようだ。この様な彼女の生き様だけ先に吹き込まれた私は、そんなとんでもない女のつくる音楽に興味が湧いてしまったのだが、実際聴いてみると、出会いだった。30年以上前に作られ、一旦は忘れ去られていたシルの曲、その声。60年代のロックスター達から、クラッシックまで、すでにこの世を去った人達の声や曲を自分は生きて日々耳にしているのだが、シルのこのアルバムの中に浮き上がる彼女自身の人格を表した生々しさ、きっと、ジュディ・シルというミュージシャンの、一人の人間の特殊さの表れではないかとも思う。死して30年経ち今なお、彼女の声が、存在が不思議なほど生々しいのである。この生々しさはどこからやって来たのだろう、シルの曲に込められた、想い、のように思える。古今東西感情を表現して来た表現者たちは皆その作品に何らかの、想い、をのせてきた事だと思うが、彼女の想いはひときわ、切実なものだったのではないだろうか。ただ、その日を生きのびる為に作品を作っている様な、生と死が作品に直結した表現者が今の世の中に何人いるんだろう。今の自分は彼女ほど生きているのだろうか。生きていないだろう。自分は今彼女ほど切実に希望を欲しているのか?それはわからない。でも、私も、やろうとおもう。

2008.08.01

8/1

ホームページを新しくしてみた。初めての写真集「目のまえのつづき」を刊行させて頂いたのが、1999年、自分が26才の時である。もうすぐ10年経つ。この前、出版元である青幻舎に電話して、「目のまえのつづき」の在庫状況を聞いてみた所、倉庫にはもうほとんど残っていないという事だった。しかし、完売、というわけでもなく、残っているには残っているが、少ない、という事だった。これは、2冊目の写真集、「いま」に関しても同じ状況だという事だった。「目のまえのつづき」が初版で8000冊刷って、「いま」も初版の4000冊はすぐに売り切れたのだが、第二版の4000冊の在庫が残り僅かという事だった。牛歩のごとき歩みで、ジリジリジリと、書店などで手に取って頂いている本のようでもある今回ホームページでは、最近のものも含めて、99年当時の書評やインタビューも、載せてみた。亡くなる3ヶ月程前の植田正治さんと、27才当時の自分がケーブルテレビの番組内で、お互いを連れていきたい街として植田さんが月島、僕が歌舞伎町を選び、その二つの場所を二人で撮影しながら散歩をするという、映像もご覧頂けるようにしてみた。いままで、ほとんどなんの情報も見れないホームページだったので、少しがんばりました。いきなりというか、今さらというか、なんとなく、もうすぐ10年目という事もあり、残り数少ないという倉庫に、約10年眠っている「目のまえのつづき」の最後の在庫が売り切れてなくなる事を祈りつつ、自分のホームページでひっそりと10年目のプロモーションをさせて頂いた。自分にとって、一生に一冊の本。それが「目のまえのつづき」という本。すべてが、発見に満ちていた、出発。もうあの頃の自分はいない。いまは、3冊目に向かって色々、考えているし、撮影も進めているのだけど、自分の場合どうしても簡単にポンと出せないところがあり、いつかポンと出してみたいなとは思うものの、一つ一つ片付けていきたいし、そんな日はまだ来ない気がする。自分にとって写真集とは、作品という側面と、自分の生活や人生をそのまま形にしている側面もある、だから簡単にはいかない、したがってウロウロして時間がかかる。三冊目をお目にかけたいがもう少しかかりそうだ。

ロサンゼルスでの「VICE 2008 フォトショー」で、展示作品以外にこの2冊の本を作品の前に置いておき、展示作品とともに、本も自由に見てもらえるようにしておいたのだが、2冊とも会場で盗まれたという事だった。誰かに捨てられたのかもしれない、しかし、どちらにせよ、2冊の本は会場から消えた、誰かの意思によって。どのような方向性にしろ誰かの意思が動いたという事が、いい話しだなと思った。いまさら、会場に行きたくなった。

2008.07.15

7/15

ロスアンゼルス、写真展 出展
「 VICE 」 というファッション系のフリーペーパーがあって、その雑誌が企画した、「VICE 2008  フォトショー」なる企画展が、ロスアンゼルスで、7月13日から2週間程、開催されている。正直内容については、自分の展示作品以外、どうなっているのかはわからない。海外の写真家達と、日本から、自分を含めた3人が、作品を出展している。というくらい。なぜ、出展したかと言えば、送られて来たその「VICE」という雑誌が、面白いと思ったからだった。制作時間がかなり少なく、おまけに、写真の内容に関する制約があった為、一瞬出展を見合わせるか、考えてしまったが、最終的には、これならばという、形が自分の中から出て来たので出展にこぎ着ける事が出来たのだった。どういった写真だったかは、言葉で説明するとよくないので、ここでは書かないが、きっと「VICE」関係の何かの形で展示の模様は伝えられる事だろう。今回現地に行けなかったのは、自分一人で、日本から参加した他のお二方は、ロスアンゼルスまで行った模様である。今、自分の写真がアメリカで展示されていて、しかも、自分で展示をしたわけではなく編集部の方にこちらで書きなぐった、展示計画見取り図詳細を、お渡しして、現地で展示してもらったので、実感が無いというか、腹の座りが悪いというか、行けなかった自分が悪いのであるが、妙な気分である。海外での写真の展示は初めてなのだ。だから、現地の人達がどういった反応を示してくれているのか、それは気になる。もしこれを読んでいる、ロスアンゼルスにいる人、もう残りわずかな会期だけど、現地リポートを、このページに送ってくれたら、嬉しいんだけど。。ここ数年で夏が嫌いではなくなったが、今年は、仙人草なる、扁桃腺が腫れなくなるという木曽地方に昔から伝わる民間療法をネットで調べて、試してみるなど、なんとか今年の夏も、乗り切っていければなと、おもっている。夏は暑いんだから。

2008.06.27

6/27

23日朝から26日朝まで続いた昼夜連続の撮影が終った。丸三日間の睡眠時間は4時間だった。後は撮影と撮影の合間の移動で目を閉じていた、ときおり、遠くを見つめていたりもした。今から8年程前に、映画の撮影をやった事があり、25日間中1~2日の撮休をはさんで早朝から深夜まで毎日撮影をしたのだった。しかし、それはあくまで、普通の生活時間帯に体が動いているので、夜は少ない時間だが寝る事が出来たので、一定のリズムの中で進む事が出来たのだが、今回は3日間という短期間だが、夜から朝までの撮影と、朝から夜までの、それぞれ別件の撮影が3日間に奇跡的な時間のはまり具合を見せて、時間的、物理的には撮影を可能にしてしまったのだ。あとは、己の体調管理にかかって来るだけなのだが、この、68時間の中には一定のリズムが無く睡眠するのが難しかった。しかし、68時間中の4時間という睡眠は偉大で、そのおかげで、気が狂う事もなく、ボロボロになる事もなく、自分自身少し楽しみにしていた、3日めの朝の心身の状態は正直、まだいけるなあ。という感じだった。でも、逆に、もうダメだという時は、死んでいるか、入院しているか、気絶しているか、そんな所な訳で、もちろん、そんなになる筈もなく、体的には、イケテしまった。それにしても、撮り続けた。これが撮影とは違う内容の作業や、仕事だったら、こんな朝は迎えられなかったような気がする。撮影は、偉大なり、精神は偉大なり。なんとしても68時間撮影の終了後はビールを一杯飲みたいと思っていて、帰宅の道すがら店を探したのだが、朝の五六時、世田谷村の自宅に近づくにつれて、やっている店などなく、環八沿いのほとんど人のいないデニーズに入り、ビールを飲む。味は、そんなにうまくはなかったが、二杯飲んだ。ただ、ビールというものを口にしたかっただけなんだろう。同じ店内のガラスで仕切られた向こう側の喫煙席のカップル、楽しそうに何かを話していた、こんな早朝にデニーズで何を話しているんだろうな、などボーットしながら、担々麺と、トンカツと、豚の生姜焼きを食べた。外の環八はトラックで渋滞を始めていた。深夜の新宿で撮影をして、そのまま吉祥寺に移動して撮影を開始してしばらくした頃、撮影現場で交通整理をしてくれているガードマンの一人の人が、「きのうの夜、新宿で撮影してましたよね、ぼく現場にいました。」とニッコリ声をかけてくれた。こんな偶然もあるんだなと、びっくりした。ガードマン氏も寝ていないんだなと思い、力が湧いた。と同時にガードマン氏はどんな生活をしているのか急に興味も湧いたのだった、ガードマン氏も同じ思いだったのかもしれない。短期集中で沢山の人に会った、お互いまったく違う人生なのだが、すべては、それぞれが生きて行くための事なんだなと思った。けして楽な状態ではなかったが、細胞はしっかり燃えていたと思う。

2008.06.01

6/1

荒木さん
荒木さんの誕生会に、行って来た。パーティ途中で写真を撮り始めた荒木さんの首筋は恐竜のようだった、荒木さんが生まれていなければ、自分は写真をやっていなかった。そう思うと、自分の人生の土台を作ってもらった荒木さんに、手を合わせて拝みたくなるような気持ちにさえなる。この気持ちは一生変わる事はないだろう。荒木さんに対して、好きとか尊敬してるとか、もうそう言ったレベルではないのだ。荒木さんご本人に招待してもらったとはいえ、「お誕生日おめでとうございます、」の一言をご本人に伝えに近寄っていく事さえ、今だに、小生ごときがと、おこがましく思え、ためらわれるしだいだ。一緒に行った佐内さんに、引っ張っていってもらって、ここ3年めにしてようやく、言葉らしきものを頂いた。こちらを見て「大橋、おまえ最近、温和になってんじゃねえのか?え?やさしくなってんじゃないか?」と肩をポンとたたかれて荒木さんは、そう言われた。どうなんだろうと思う。初めて荒木さんとあった瞬間の事を思い出す、荒木さんのパーティにたまたま出席させてもらったのだが、評論家の飯沢耕太郎さんが、当時20才になったばかりの自分を荒木さんに紹介してくれて、「荒木さん、こいつがこの前、荒木さんが賞をあげた大橋だよ」と押し出してくれた、「おう!知ってたよ、さっきからそこに居ただろ?知ってたよおまえが、大橋だって」「おまえは、つめたいからいいよ!おまえはつめたいからいける!」といきなり言ってくれたのだった。あの時の自分は自分がつめたいなど思った事もなかったのだが、30才を越した頃から「んん、やっと荒木さんが言っていた事がわかって来たような気がする」と、やっと己のつめたさを実感するようになっていたのだ。やはり、荒木さんだなぁと、思うのだ。いま35才、自分は温和になったのだろうか、んん、これまたわからない。少なくとも、荒木さんは2005年に出した2冊めの写真集の写真が、俺の写真に対する最後の記憶なんだろうと思う。しかし、あの、荒木さんの言葉、「おい、やさしくなんかなるんじゃねえぞ、」と、「ヌルくなるなよ、写真がヌルくなったら終わりだぞ」と、逆に俺を戒めてくれていたのだろうか。この、「やさしい、」という言葉と、「つめたい、」という言葉、これは普通の解釈では当てはまらない言葉、荒木語であり、写真語なのだ。また、自分の中で消化するのに時間がかかりそうだ。いや、ずっとこの言葉と生きて行くんだと思う。

2008.05.12

5/12

このまえ、バリの海で写真を撮った、小さな船を借りてその小舟の屋根に乗っかって、海を撮った、空は晴天で風がつよかった、鮮やかで深い青色の海、うねって太陽を反射する。海の印象は女だった。なぜそう思ったのかは分らないが、撮っているとき自分は男であった、うねって光る波は追っかけてもつかまらない女の後ろ髪のようだった。夢中でおいかけた。船の屋根の上は焦げるような熱さだった、肌は焦げた。現地のおっさん船頭と、半分以上通じない会話をしながらなんの目標物もなく、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりただ海上をぶらついた。おっさんは釣りもしなければ、ダイビングもしないで船の屋根の上から、ただ海の写真ばかりを撮っている変な日本人をぼーっと見ていた。陸に上がっても車で浜辺を探した。何かを追っかけているようだった。具体的なものではもちろんない。自分の心の中にあるものが、この海のどこかにいきなり表れそうな気がして、それをつかまえたいとファインダーをずっと、覗き込んでいた。何をつかまえたかったのか、自分の心の中にあるものとは一体なんだったのか、欲望、だったんだと、思い出した。自分の中の欲望が、波や光になって自分の前に表れる、それを追っかけていたんだ。自分の心に浮かぶ風景、現実に目の前でうねる海、現実に見える風景のその先に浮かんで来る、もう一つの風景。東京でも、同じ事はおこる。体の射精と、心の会話、現実と、想像、自分にとって表裏一体とも思えるそれらは、それぞれ違う壁となって自分の中にそそり立っている。その壁と壁の間の溝の中を今の所唯一写真だけが、いったり来たりしている。その溝の中には得体の知れないモノが潜んでいて自分を暗い溝の底へと引きずり込もうとしているのかと思いきや、その溝の中には自分が座っていた。

2008.04.08

4/8

昨日のイメージ、今日のイメージ、中学生くらいの少年が乗る自転車のヘッドライトの輝き、立ち止まる人の足下とにのびる影、雨は近い。イメージがまた消えた。また現れた。行動をためらう体が、欲求に突き動かされる。写真とはこうでなくちゃ。

2008.03.27

3/27

タイにいってきた。バンコクの街を歩いた。売春婦たちに会った。犬たちを探した、夜の街に、昼の街に犬たちの姿が消えてしまった。振り返れば、思い切り交尾をしている、尻尾を振ってふらつき、拾い喰いをしながら人間に蹴飛ばされ、車の間を走り抜け、仲間同志でいきなり喧嘩を始め、ただ眠る犬たちの姿が、街から消えてしまった。たまにいる犬は首輪をかけている飼い犬、あの自由でしかないやつらは、街から姿を消した。野良犬たちが己の意思で街から出て行ったわけではないだろう。きっと駆除されたんだ。バンコクの魅力が一つ失われたようにおもった。バンコクの気温が一度下がったようだ。犬と人間が同じように生きる道端から、犬だけが排除されて、自由がバンコクから一つ消えたのだと感じた。狂犬病もあるだろう、その為に尊い人の命が年間何百人も失われてるという話しを聞いた事がある、それでも、二年半前は街中に犬がいて、人間と暮らしていた。犬だけが消された。彼らは死んだんだろう。あの犬になりたいとすら思う自分は、犬の消えた暑いバンコクの街角で一人ゾッとする思いだった。奴らの走り回る音や、鼻息、うなり声の聞こえない静かな街の四隅に冷たく、鮮烈な死の匂いがした、あの犬たちは人間の視界には殆ど入って来ない、ばい菌や、病気を持っている汚い存在だっただろうが、所詮、観光客でしかない、自分からすればあの犬たちは明らかな街の妖精だった。

2008.02.02

2/22

昨日で東京都写真美術館での展示が終わった。さすが、都のやっている場所だけあって、今までにはない数の人に自分の個人的に発表した写真を展示として、ご覧頂けたようだ。自分の理想的な発表の場とは、自分の写真の予備知識なく突然、偶然、何かの間違いでも、自分の写真と出会ってもらえる可能性ができるだけ多くある場所だった、今回の企画展ではこの二ヶ月で13000人程の人が入場したという事だが、そのほとんどが私の事を知らない人々だっただろう。会場にご意見ボックスを設置して、できるだけ思ったままの感想を書き込んでもらえるよう、アンケート用紙をおいた。様々な言葉が、書かれていた。自分はいつでもどんな角度からでも驚きがほしい。驚いていたい。驚きこそ自分の新しい考え方感じ方の源になる、これは、快感でもある。自分の欲しているものを見ず知らずの人間ともし共有出来るなら、それは最高だろう。驚かしたいのではなく、自分が驚いていたいというだけなのだ。驚きとはだいたい、通り魔的に訪れる。私の写真の性質とでもいうのか、異常な嫌悪感や、拒否反応を示す人も少なくはなかったはず。そういった人々にこそ、今回出会えて本当に良かったと思うし、都写美でやれる価値がそこにこそ有ったと思う。自分は、自分にとって心地よいものばかりに囲まれていたら、新しい考え方、感じ方には出会えないだろう。私の通じない、私の事を大嫌いなそこの、あなたさま、また明日、お会いしましょう。

2008.01.31

1/31

都写美での展示の会期も半分以上が過ぎて、私の写真の部屋に置いてある、ご意見ボックスにも、アンケート用紙に賛否両論を頂き、有り難いかぎりです。おもしろかった、ふつう、つまらなかった、の3項目の中、つまらなかった、に印が入っていて、アンケート用紙のど真ん中に一言、「なんなの!」という、怒りとも、戸惑いとも、迷いとも、喜び、では間違いなくない、感想が書いてあった。なんなんでしょう。それを、見に来て下さい。

2008.01.10

1/10

2月3日に東京都写真美術館で、トークショーをする事になっている。皆さんおいで下さい。そしてしかし、この様な、ホームページをやっているというのに、知り合いを除いては、このホームページになにか、今回の都写美での展示についてのメッセージを送って来る人が一人くらい居ても良さそうなのに、ひとっこひとり、メッセージの一言も送られて来ないこの、有様。。もしくは、メッセージを送る程のものでもないという、受け手側からの、沈黙のメッセージと言う事なのだろうか。それにしても、黙殺に近いというか、なんとか言った方がいいんじゃないの?せっかくメール送れるわけなんだし。一応展示スペースにもご意見ボックスはあるものの、こう、反応がないというのも、悲しい。

2008.01.08

1/8

新しい一年、が始まったという。そういわれてみれば、一月一日から、日差しさえ何か新しさを感じないでもない。必死で、そう感じようとしている。新しい何かに希望を持ちたいのだろう。新しい変化を、みな待っているんだろう。新しいカードが配られるのを。24時間が過ぎれば、一日が終わる。日が一度昇り、一度沈む。その間も、相変わらず生きている自分。死んでいる自分もちらほら。やっぱり、一秒という時間、一日という時間、一年という時間、一人の人間の一生という時間、時間という絶対的なものの中で、生息しているのが、この森羅万象。時間は我々誰の事もまったく、気にはしていない。しかし、いつも気になる。時間という存在が。何もかもをのみ込むつもりなのだろうか、たぶん、時間の事を、結構知っているのは細胞なのかもしれないし、頭ではなく、この体なのかもしれない。頭の悪い自分としては、常に体に考え方を教えてもらうしか、にゃい。

2007.12.31

12/31

今日は大掃除をした。歳の変わり目を一番感じるような気がした。夕方、奇麗になった窓ガラスのむこうに、冬の斜光の中、風に揺れる雑木林が見えた。うん、奇麗だなあと思った。冬の空気感は好きだ。寒いのは嫌いだけど。ここ数日忘年会がダダダッとあって、どの会も酔っぱらっていたし、なにがなんだか憶えてはいないが、酔っぱらって寝ている人の顔、笑っている人の顔、体の中で味を無くすアルコールのひろがり、掃除機が吸い込む埃と、ガスレンジやら梅酒の瓶やらにへばりつく、油、それを、呆気なく溶かし流す洗剤。正直、掃除ってきもちええ。だから、今日はきもちええ。今年の事を考える気にはなぜかまったくならないんだ。次のようだ。次の事を見ているようだ。自分には見えているんだろうか?見えてるわけがねえ。けど、やっぱり、そっちばかり向いてしまう

2007.11.18

11/18

家族の写真を除くと、写真に関する記憶について、一番古い記憶は、小学校低学年で毎日の様に眺めた「写真時代」の荒木さんや森山さんの写真だったと思う。  
一ヶ月ほど前、生みの父親から電話が入り、「家を(私が生まれて14才まで暮らした家、現在は生みの父親が新しい家族と暮らしている)売らなくちゃならなくなったから、お前がガキの頃置いていった荷物をお前に送り返す」といういう内容だった。しばらくして小包が届いた。中を開けると汚い文字が書きなぐられてあるハガキと、中三の時の自分の顔写真が貼付けてある高校の受験票と謎のレシート数枚。昔の家に忘れていった自分の思い出の品の少なさに、荷物ってこれだけか、とは思ったが、この品は、自分が14才でその家を出てから完全に自分の記憶からは消えていた品であり、まさに20年ぶりに自分の元に戻って来た小さなタイムカプセルのようなものだった。ハガキを見るとその当時付き合っていた彼女に宛てた言葉が書き添えてあった、「このハガキを選ぶのに一時間かかった~」という言葉だった、しかし、何故かハガキは自分の手元にあるという事は当時渡しそびれたのか、なんなのか分らない。オンサンデーズという洋書屋が神宮前に今でもあって、自分が中学生の時にその洋書屋にたぶん千枚はかるくあったと思うのだが、世界中の写真家の写真や、絵などが印刷してあるハガキが大量に売っていて、中三の頃、暇にまかせて散々吟味して選んだ一枚のハガキがそのハガキだったのだ、ハガキは植田正治さんの写真だった、白黒の砂丘シリーズで、砂丘にLPレコードが二枚置いてあって、その二枚の目の様に配したレコードの間にステッキがたてに鼻の様に置いてあり、大きな砂丘に不思議な表情の顔がくっついているような、いい写真だった。植田さんは七年前に85才でお亡くなりになっていて、亡くなる3ヶ月ほど前に植田さんと私は、ケーブルテレビの番組の企画で、二人で写真散歩をしていたのだ。たしかお互いの好きな場所に、お互いを連れて行き、そこで、二人で写真を撮りながら散歩をするという内容だった。植田さんは月島を案内してくれて、一緒に、もんじゃ焼きを食べた。その後、私は植田さんを歌舞伎町へお連れしてまた散歩、撮影、そこでおひらき、という感じだった。その日どうしても、植田さんに聞きたい事が一つだけあった。「人生は長いのですか?」という事だった。植田さんは「あっという間でした」とおっしゃっていた。26才の私は、人生はとんでもなく長いものではなかろうかと考えていただけに、植田さんのそのお言葉に素直な驚きを感じた。植田さんは本当に写真家だった。かっこいい男だった。植田さんが公の場に出たそれが最後だったという話しだ。正直、植田さんの写真を普段から意識したり、写真集を集めていたりという事まではしていなかったのだが、まだ、写真の写の字もなかった、中学生の頃に、大量のハガキの中からたった一枚、上田さんの写真をその時の自分は選びとっていた。自覚的に写真を撮る様になってから今まで、植田さんの写真を選んだあの中学生だった頃の自分の気分を忘れてしまっていたような気がしたのだ。しかし、あの時の自分も確かに自分であり今も心に存在している。二十年かかって飛んで戻って来たブーメランタイムカプセルハガキを、懐かしさより、新鮮な驚きを持ってしばらくの間眺めいってしまった。

2007.11.08

11/8

今日もの凄く驚かれた事があった、地下鉄に貼ってある、宮崎あおいちゃんの写っている「東京メトロ」の広告写真を、大橋仁が撮っているという事実について。そういえば、今年の初めから撮影が始まってもう10ヶ月は経っている、あおいちゃんのシリーズになってもう3シリーズ目にもなっているというのに、この事実をほとんどの人が知らないばかりか、それゆえ私個人にはほとんど反応がない。地下鉄に乗れば、目にするかわいらしいあおいちゃんの写真、俺が撮ったっていいじゃないか、来年は写真集を出す、グループ展ではあるが年末に東京都写真美術館で、新作を並べてご覧に入れたい。恵比寿ガーデンプレイス付近の柱には昨日の段階で、すでに展覧会ポスターも張り出されており、もう始まるんだなと感じる。ぜひ、見に来て下さい。

2007.10.21

10/21

昨日は撮影の後に、近くに温泉があった為に、一風呂浴びるべく、ゆっくりと湯の中に浸かった、現場が平塚だった為、箱根が近かいという事で、アシスタントの山田を連れて、ちょうど良い位置に三日月が出ていて、月見風呂だなあなんてのんびり湯浴みしていたのだが、湯船の中ざぶと、アシスタント田山に振り返り、「今日は何日ぞえ?」と私が訊く「10月の20日にござ候」とアシスタント田田山が答える、私が、「ふむ、して、青山にある、あのぉ~、風と~じゃなくって、月の神輿じゃなくって、つくつく法師じゃなくって、なんかそんな名前のライブハウスなかったかえ?」と訊く山山田は、「それは、月見るきみを想う、という名のライブハウスではござりませぬか?」という、「笑止!」と我叫ばんや、大湯を山田山の顔面に浴びせかけ、その眼鏡もろとも、素首ねじ切って捨ててんげり、湯船よりすっくと、立ち上がり、青山の月見豆腐ライブハウスへと、一路車を走らせた。山山山は、ねじ切って捨ててんげられた己の首を湯船より拾い上げて、どうにか胴体に押し付け、追いかけて来た。なにせ、川本真琴さん、七尾旅人、豊田道倫、の3人ライブがある事をすっかり忘れておったのであるから、箱根の山から、青山まで、おお急いだのだった。無念、最初の旅人の所を聞きのがしてしまった、しかし、川本さんの所からは聴く事が出来た、川本さんは、タイガーフェイクファー、という名前でステージに立っていた、「クローゼット」という曲、最高だった。川本さんの持つ、女の性に、やさしく、気持ちのいい所へ連れて行ってもらって、気持ちのいい事をしてもらったような気分になった、己を表現する事で人と人が繋がっていくのだけど、大袈裟ではなく、その表現力をより深く、強く持てるという事はこんなにも、人間自身に生命力や活力、を与えられる物なのかと、人は表現力に尽きるんじゃないかと、川本さんの曲を聴いてしみじみ感じた。そして、表現力のある、女の性を求め求めておる己に気がついた。豊田さん、こと、ミーくんのライブは久しぶりに聴けて良かった、ミーくんは結婚して、自分の子供の歌を歌っていた、そして、デビュー当時の曲を数曲、ギターを弾くミーくんに、20年先のミーくんが見えた。その20年先の姿も、老けてはいたが、変わらずがんばっていた。自分には音をつくる能力は無い、が、力のあるシンガーソングライターとは、一人にして、その場の世界を、そこにいる人々の心を自由に操る事の出来る、指揮者のようなものなんだなと思った。同時に自分の写真達を思い浮かべた、自分はどうなんだろう。彼らのように表現する事に対して、切実でいられているのだろうか?自分の写真達はもうとっくに、自分のもとをまるで関係なかったかのように離れて、遠いお空のお星様の様な所から、キラキラと自分にむかって笑いかけているみたいだった。そうか、もうあの写真達も過去なんだった。自分はもっともっともっと、歩くべきなんだとおもった。

2007.10.20

10/20

路上の生活人の眼と、世捨て人の眼、写真を撮る為に必要なもの、露出計、である。光の量と、影の量を、この計測である程度操る、露出命、である。露出計を握りしめて撮影をする、夜に咲く花があったっけ?スタジオでの撮影の中にも爆発は起こる、自分と対象があれば、何処ででもそう。昔、戦後、帝銀事件という、強盗殺人事件があった、16人もの行員が、何者かによって出されたお茶だか、飲み物だかを口にして、次々と倒れた。犯人は、人を殺す為の飲み物を作り、湯のみに注ぎそれを、飲ませ、現場でバタバタと人々が倒れ死んで行くのを、ただ、じっと、見ていたという。犯人は捕まっていない。人が目の前で絶命して行く様を、冷然と見ている犯人の顔を、眼を、想像すると、ゾッとする。顔のパーツとしての眼ではなくて、心に付いている眼。これを生き方という、言い方も出来ると思うのだけど、人間には、様々な眼が備わっていて、人間はその眼によって、かくも色々な所に連れて行かれてしまう。僕は、眼で見て、露出を計りにいくシャッターを切る。なんの調整も利かない路上は、知らないうちに自分を気持ちよくしてくれる。路上は僕を否定も肯定もしない、ただあるだけ。「否定的態度とは、それ自体が実は一つの思想でありモラルである」と安吾は言っている。否定していく事の中で人は、自分にとって好ましい事と、好ましくない事を選り分けていき、己の理屈で己の頭の中だけで物事に対して是非を下す、己の小さな頭の中一つだけで思考が終始する、己の持つ小さな思想と、小さなモラルに、支配されている、そういった否定的態度の内には、およそ、己以外の世を、自分の心の窓口に寄せ付けようとはしない、一つの、世を捨てた態度が浮かび上がる。これを、世捨て人の眼と僕は見る。肯定的態度とは、逆にモラルもなれば思想もない、形がないだけに、すべてを受け入れてしまう、己と相反する物も、己を攻撃するものにすら、窓口を開けてしまう、これを、己以外の世を、一つも捨てる事のない、この世の、現世の、生活人の眼、と見る。自分は、自分の操作の利かない精神的路上で、はたまた、そこらの道ばたで、常に生活人としての眼を養っていきたいな~なんて思う。

2007.09.09

9/9

リクルート、「L25」の連載ページが始まって、10ヶ月。けっこう我が家を撮影場所として、使っているのだが、朝6時頃までスタジオで撮影をして、その3時間後の朝9時に、我が家にて撮影が始まる予定になっていたのだが、もう寝ないで、起きていようと思いつつ、ソファに座った瞬間に眼をつむってしまい、もう一度眼を開けると、その座ったままの体制で寝込んでいた所に、鈴木蘭々さんが我が部屋に到着されて、朝の挨拶を頂きつつ、目のまえに立っておられた訳で、スタッフも順次準備状態に入っていた。頭が、寝込んでボーットしている所に、朝の撮影のやる気感、ちょっとした緊張感が、一気に入って来て、まるで、町を何気なく歩いていて、ふと気付くと自分だけ全裸であった、かの様な感覚にみまわれ、一人で面白くなっていた。我が家での撮影ならではの感覚。皆さんは「L25」もう見て頂いているのでしょうか?そんな中撮影している訳だが、まったく反響が無いので、まったく、無視されているのだろうかと、少し不安にさえなる始末なのだ。反響ねぇ。そして、全く話しは変わるのだが、ミクシィ、なんなんだろうね、あれは、不思議なものが出現したなぁと思った。友達の友達が、、、私にはとても使いこなせる筈は無く、かといって、話しかけてみたくもあり、コミュニティというものが存在して、大橋仁というカテゴリーにも方々がお集りなのだが、どんな方々なのか、一見分からない。はあ、分らないと知りたくなる。一回みんなで顔出して欲しい。便利な不思議な人間関係の箱。

2007.08.01

8/31

サマー、夏  、皆さんの夏はどんな夏だったんでしょうか?皆さんはこの夏をどのように過ごされていたのでしょうか?蝉時雨の中、本でも読んでいたのでしょうか?おバーちゃんの家にでも行っていたのでしょうか?ひたすら、働いていたのでしょうか?気になりました。もし良ければ、一言で、教えてください。長い表現は必要ではありません。夏は汗をかくものです。サマー、私は今年の夏は、去年にくらべると、多く汗をかいたようで、汗にも濃度があって、水みたいな汗から、塩気の濃い汗まで、色々かきました。たしか、そこそこ、いい香りの汗もかいたと思います。ハンガリーへ行ってきました。ブタペスト、本当はシシリー島に行く予定だったのですが、ハンガリーでした。ハンガリーの温泉プールに一人浮かんで来ました。ハンガリーのスープを飲みました。空気を吸ってきました。写真も撮ってきました。何かが、ありました。何かがいました。初めての何かが。

2007.07.25

7/25

雨ですな、晴れですな、むしむし、汗ばみますな。曇り空のモクモクとした暗い雲の向こうに、青空が見えている。風もあるし、シャツでも着ることにしよう。
どこに行こうとも、もう自分はそこにいて、過去に立っていた場所にも今すぐ立ち寄れる。肩を叩く人の顔はいつも見えない。誰も肩など叩いてはいない。スペインの山の中で、しゃがみ込んでいたあの時の自分のすぐ横に、中間テストをしている最中の高校生だった時の自分の横に、初老を迎えながら小さな性欲と戦っているさえない自分のすぐ横に、いつだってすぐに行ける。そして、いつも、いろいろな自分が今の自分に会いに来ている。おい、あの自分、死んでるぞ。ああ、そう。女のつるつるとした内股に果敢によじ登ろうと苦闘する1センチのわたし。パリの町中を歯痛でこめかみが痛く、目眩がする中、足が棒になるほど歩き回り、やっぱりワインを飲んでもっと痛くなって、ワインを止めたわたし。またすぐ、いつでも会える。しかし、結局私はどこにも居なかった。今後も。頭の中だけでは勝手なのだが、私のカメラが今こっちを見ている。お前だけが実態を持っている。かなわんなあ。もう夏の虫がなき始めているこの季節の夜が一年で一番楽しい。少しでも酒を入れられれば、申し分ないんだけど。

2007.05.26

5/26

昨日は撮影の後に、銀座で行われた荒木さんの67才の誕生会に、佐内さんと行って来た。佐内さんとはもう古い付き合いだが、ここの所二人でゆっくり酒など飲んだりはしていない、しかし、去年も荒木さんの誕生日には佐内さんと出かけたのだった。昨日は咽の調子がすこぶる悪く、足下から首筋にかけて悪寒がつっ走りまくっておったので、とりあえず、会が始まるのにも時間があるしで、二人で温かいお茶をする事にした、店に入った瞬間に、眼に飛び込んで来たのは、白夜書房の末井昭さんの顔だった。25年位前に、「写真時代」という伝説のエロ本を作った方で、「写真時代」は常にエロ本コーナーに置かれながら、その巻頭特集は常に荒木さん、中面では、森山大道さん、赤瀬川原平さん、南伸坊さん、倉田精二さん、などなどが連載されており、エロ本などという枠は完全に超えた、本気の芸術本でありながら、うちの小6だった兄貴までもを毎月、定期的に本屋に通わせる直球エロをも兼ね備え、発行部数も一時はうん十万部を超えた、現在の日本では誰も作る事の出来ない、名雑誌を作られた方。「写真時代」は、たしか80年代に廃刊となったが、何故か、10年ほど前に、「写真時代インターナショナル」として、一回限りで復刊、もちろん巻頭は荒木さん、巻末は運良く大橋仁がやらせていただいたのであった。末井昭さんは僕の顔をすぐに判別してくれたらしく、こちらの挨拶に優しく答えてくれた。日本のカッコいい男トップ10に入る本当にカッコいい男の人。他とは顔がちがうんだ。。話しを大きく元に戻すと、会は始まっていた。振り返れば荒木さんが立っていた。少し痩せられて、体調良好という感じにお見受けし、スライドショーも拝見した。やっぱり、荒木さんはすでに存在して、生きているだけで、感動的な人間。十代の自分が初めて荒木さんを肉眼で見た時の感動は、今でも忘れられないし、今だに自分のその心境は変わっていない。こんな事ってあるんだろうかと自分でも思うのだが、たぶん今後とも変わらないだろう。

2007.05.20

5/20

1~2ヶ月前にツタヤで、映画を物色していたら、リュックベッソンが、チャールズブコウスキーの短編、「人魚との交尾」と「充電のあいまに」を原作にした作品「つめたく冷えたつき」というのを撮っているのを見つけて、リュックベッソンがブコウスキーを原作に映画を作るなんて何ともいえない複雑な心境になってその時は借りなかったのだが、また同じ棚に立ち寄ると今度は借りてみたくなったので、借りる事にした。まずパッケージをよくよく見ると主演の男二人の顔がかなり自分が原作「人魚との交尾」を読んだときのイメージに近くて入りやすかったのだが、日頃から自宅の便所でブコウスキーに頭をなでられている自分としては、最後まで見終わった後、とても気持ちのいい作品だった。そしてもう一つ気付いた事があったのは、実はこの映画が公開されたすぐ後、92年当時自分が笹塚の実家にいた頃なのだが、カンヌに出品された作品で、死体とセックスをする映画なのだがこれがまたいい作品なのだと、近所の仲良しビデオ店長に勧められて、15年前にすでに一度見ていたのだった、人間のというか、自分の記憶というのは曖昧だなと思ったのだが、確実にその当時のビデオのパッケージと、今ツタヤに並んでいるパッケージは別物であるから思い違いも仕様がないじゃないか、んん、知らぬうちに15年前にブコウスキーに出会っていたのか、とも思う。そして、もう一つ知ったのは、この映画を制作したのが、ベッソンだっただけで、映画化にあたり版権を買い、脚本、監督、主演、をつとめている、パトリックデプシーという壊れきったツラのオッサンがいてこのいい顔したオッサンがこの、「つめたく冷えた月」の全てを作ったということをしって、安心かつ納得に至ったのである。そしてさらに、この前の撮影で夜の波間にインリンを発見したのだが、その現場にはブコウスキーも、安吾も、後ろの方から、こちらを見ていたのである。もちろん勝手に二人はこの馬鹿者に連れて来られただけなのだが。

2007.05.18

5/18

僕はトイレで本を読む、今まで何冊トイレで読んだだろう。トイレは重要な場所になっている。よくトイレからそのまま本を連れ出して読んでみたりもするのだが、何故かトイレの方が本の内容がはっきり頭に入ったりするのである。くそをしながら感動で泣いたりもするのである。くそをしながら笑ったりもするのである。たった今も現在進読中の筑摩書房の坂口安吾全集15巻の中の「教祖の文学」の中で安吾自身が紹介している宮沢賢治の遺稿「眼にて言ふ」を読んでいた。

「眼にて言ふ」

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているですからな

ゆふべからねむらず

血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう清明が近いので

もみじの若芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがつて湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば

これで死んでもまづ文句もありません

血がでているにもかかはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言へないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほつた風ばかりです

血の中に沈み、死を横に座らせておいて彼は青ぞらと、風を、感じていた。生きるという事は何故ここまでどうしようもないものなんだろう。人は死ぬまでは生きている。なんとどうしようもない事なんだろう。この現在の、この瞬間の、この時間、というものを考えずにはいられなくなる、ただ、ぼーっとだが

2007.05.13

5/13

時間というものの考え方。心は常に明朗会計でありたいという気持ち。車を運転していて何故か兄貴のことを思い出した、一年に1度か2度、実家で数十分会う程度で、仲のいい兄弟とは言えない、自分の人生で兄貴にあと何回会うことがあるんだろう、現実的に今際の際でふと横にいるのが家族で、その時もきっと大したことは話さないもので、結局時間を共にした人間との時間が、ある角度から見た一つの人生という事になってしまうんだろう。千葉の海岸にいた、風が強く、夜になって波はまだ高く、浜には勢いよく波が打ち寄せていた、真っ暗な浜辺で、波と波の合間に女がいた。インリンだった。写真を撮った。彼女は奇麗な女だった。よく輝いていた。よかった。時間の中でどんどんと変化して行く人間。いいタイミングで、お会いしましょう。

2007.05.05

5/5

最近どうもこのページに手が伸びなくて、そろそろかなあ。なんて。四月はバタバタしっぱなしで撮影以外は半分放心していた。そういえばソニックユースのライブはもう遥か昔のようだ。会場では、聴きすぎて演奏の印象がほとんど無い。なんならニューヨークまでライブを聴く為だけに行きたいとすら思っていたソニックユース。サーストンムーアの腹がでっぷりしていて良かった。曲の印象よりも彼らは人間そのものに流れている時間の感覚を自由に楽しんでいるようで、その様な真似の出来る人間がいてくれた事を誰かに感謝したい様な気持ちになる。一番見たかったドラムのシェリーはやっぱりいい男だった。いい男過ぎて透けて見えた。うん、いつだって自分以外の色々な出来事や要素に楽しみを求め過ぎるのはよして、自分の中に流れている何処にも無い自分にしかない時間をもっと、もっと、楽しむ、そんな事を考えさせられた。また一つ思い出した。最近リクルートから出ているL25というフリーペーパーで連載をやらせて頂いているのだがこれがまた、まさに時間の一発つかみ撮りの様な撮影でそれは撮影の原点でもあるし、自分自身毎回楽しみにやらせて頂いている撮影なのだが、もし思い出して頂けるのなら今度、覗いてやって下さい。

2007.03.28

3/28

「みんなのねがい」という障害者の為の雑誌で写真を撮っている。晴れていたので、お昼の時間に、施設の子供達と散歩にでかけた。歩いて数分の公園、そこには健常者の子供達も多く集まっていてみんなが思い思いにあそんでいる、そこに障害を持った子供の集団が入って行く、ブランコを占領して遊んでいた健常者の子供達、何故か一斉に走って違う場所に移動してしまった。たぶんその公園を施設の子供達もよく利用していて、近所の子供達も彼らが障害を持っているという事を知っているのだろう。砂場の近くのバランス棒では、健常者の女の子の集団が集まって遊んでいる、施設のちょうど同じ年くらいの女の子が、そのすぐ近くを歩き回る、けして両者が一緒に遊ぶ事はなかった。一見してそこに居る、健常者の子供達と障害を持つ子供達との見分けはつかないといってよかった、そこに居合わせた子供達、障害者、健常者、ともに何も変わる事の無い幼い命だった。しかし、そこには一つだけ大きな違いがあった、それは未来についての選択肢を持つ者と、初めからほとんどの選択肢を持たされていない者との、これからやってくる未来の大きな違いだった。東京都写真美術館で年末から始まる展示について打ち合わせをして来た。新作で行く事を考えていた。行き当たりばったり、自分の事はまだほとんど解っていないといっていいだろう、昨日はスキーをする夢をみた、久しぶりにスキーをした。たぶん、夜のスキーだ。

2007.02.24

2/24

子供の頃、仲の良かった伊集院マモルくん、通称マモくん、黒フチでレンズの厚い眼鏡をかけ、短髪で色白、病弱そのものという感じで、薄汚い半ズボンから痩せた足が妙にすらっと長く、身長も子供の割には大きかった少年。九州の貴族の血族に違いないと、相模原に住んでいた小さな印刷屋の一家である俺の家族はそう彼の事をどこかで一目置いてみていた。マモくんの家はゴキブリ屋敷で、家の中は何時もほぼカーテンが閉めっぱなしで、マモくんのお父さんは大きめの一人掛け用のリクライニンゲチェアに深く腰掛け、ヘッドホンでバカでかい音で目を閉じてクラッシックを聴いていた、ワーグナーや、マーラー、の交響楽ではなっかたろうか。両手をおく肘掛けの裏にはゴキブリの親子が警戒心のかけらもなく自由に走り回っていて、おじさんの体に登って来ても、手のひらで軽く払いのける程度だった。俺はゴキブリが子供の頃から大嫌いだったが、なにかそんな、ゴキブリごときには一切頓着しない、おじさんの異常なまでの静かなたたずまいに、やっぱ貴族は違うわ、などと、子供ながらに何処かで気品の様な物を感じていた。マモくんは、俺より6~7歳年上だったが、小学校低学年の俺に向かっても、また兄貴に向かっても仁くん、和生くんなどと、必ず君付けで呼んでくれていた。我々兄弟にそんな君付けなどしてくる子供は近所には一人もいなかった。マモくんは、昆虫博士であり、ムー大陸研究の権威であり、心霊学者であり、我々兄弟の接する殆ど全ての自然科学の先生でもあった。マモくんが焚き火の中に仁くんこういうの見た事ある?といって、カマキリの頭をむしり取って放り投げていた時や、バッタの羽の下のバナナみたいな所を指で潰して、こっちに飛ばして来たり、冷蔵庫の製氷皿にゴキブリを入れてゴキブリ入り氷を作って見せてくれている時や、カブトムシのバカでかい幼虫を庭の土から掘り出して両手にこぼれる程抱えて恍惚の表情をしている時のマモくん、それをまじかで見ている我々兄弟の抱いた、ある種の恐怖感、そして、我々人の命が昆虫とでさえ今や対等であるという、学びを、マモくんは常に呆気にとられている我々兄弟に与えてくれた。偉大な先生だった。マモくんのおかあさんが、いちど、ゴキブリの運動場である食器戸棚の中から、きっと我々兄弟の為にとっておいてくれたであろう、お皿に載せたドーナッツを出して食べさせてくれようとした事があったのだが、それを、食べるのがいやで、口にしなかったのだ。今なら一口くらいは頂くかも知れないが、我々が辞退した時のおばさんの悲しそうな表情が忘れられないのだ。悪いことをしてしまったな、と思うのだ。マモくんに会いたいが、あの時のマモくんがいい。今会ってはきっとつまらないのかも知れない。マモくんの思いで。より。

2007.02.04

2/4

2/4
あと一時間で家を出なくちゃいけない。今日は近所で昼から撮影をやる。爽やかな事は結構好きだ。この午前中の晴れ渡った太陽の光、きもちがいい。そんな事を考えながらも、呪文のように結論を探している自分、ああ、俺はつまらない人間なんだ。もっと遊び心に満ちたやさしくて、しゃれた人間に生まれて来れなかったものだろうか?オヤジとお袋の顔が浮かぶ。無理か。そして、そして、また呪文が聞こえて来る、「どうする?どうする?さあ動くんだ。このウスノロヤロウ、動けばいいんだ、早く早く、」なぜ俺に聞こえて来るのはこんな呪文ばかりなんだろう。両親の血を思い出す、自分の血管の中で石器時代の狂った原始人が群れをなして焚き火のまわりで石斧を振り回している姿が見える。洒落っ気の有る人間になるなんてやっぱり無理だ。血しか騒がない、原始人入りの。あの原始人達は本気でしかない。他の要素を持ち合わせていない。「お前のいる場所はそっちじゃねえ、こっちだろうがあ~」呪文の主が、洒落た場所で酒を飲んでいる俺の首根っこをワシ掴みにして、誰もいない居酒屋にほうりこむ。「わかってる、そのとおりだ。」
音もしない居酒屋の隅っこで一人異常に冷えた生ビールを飲む。

2006.12.22

12/22

運転免許の更新の為に府中試験場まで行って来た。講習を受けた部屋の窓からは実技試験の為の教習コースを大型車に乗った教官と受験者が走り回っているのが見えた、3年の間で違反切符を切られた人間が受ける2時間の違反者講習。やせた50歳くらいの男の教官と何度も大あくびをしている自分とは何度も目が合った、静まり返った講習室の席は7割程うまっていた。感情のまったく通い合わない自分の大嫌いなピーマンが突如話し始めたかの様に一切興味の無い道路についての話しを延々とピーマン教官は話しつづける。パクパク動いている口からは音が聞こえてこない。「はいっ」と手を上げると、なぜか一斉に注目を浴びてしまった、「すいませんトイレに行っていいですか?」とピーマン教官に聞くと、無音で「どうぞ」と手で促してくれた。座っている他の受講者達は一人もトイレには立たなかった。部屋から出て寒々しい冷たい便器に腰を下ろして思いっきり踏ん張ってみた、窓から見える教習用のコースはさっきとまったく変わる事なくとことんつまらない風景だった。薄曇りのつまらない教習コース、日本と重なった。一体どこに面白さがあるんだ。二時間後に手にした新しい免許証の自分の顔、三年前の免許の顔とくらべて、明らかに痩せ、髪型もおかしな事になっている間の抜けた馬鹿が服を着て写っていた。こんな馬鹿な顔は他ではおがんだ事が無い、こんな顔をぶら下げて平気で外を歩き回っているんだから俺はピーマン教官に敬礼しなくては駄目だ。

森美術館にビルビオラを見に行った、超ハイスピードで撮影された人間の様々な表情や瞬間が超スローモーションで大小様々なサイズのモニター画面に投影された作品が並んでいた。撮影されている人々はある決められた空間の中(スタジオらしき空間)で、単に泣いていたり悲しんでいたり大量の水をかぶっていたり、火だるまになっていたり、しているのだが、大掛かりな作品よりも、「アニマ」と名付けられた作品に目が止まった。小さめの三つのモニター画面が並んでいて、その中に三人の男女がそれぞれ一人ずつ映し出されているのだが、最初は静止画像ではないかと見まごう程のスローモーションな映像なのである。もの凄くゆっくりとした、よく見ていなければ目蓋が動いている事にも気がつかない程の人の微妙な表情の変化を眺め、その三つの画面のうちの一人の女とゆっくりと目が合った。数年前にフィリップガレルという監督が1974年に発表した、「孤高」、という映画のチラシにコメントを書けという話しが来た時の事を思い出した、「孤高」、は白黒の映像で、無音、ストーリーも有るようで無い生活のシーンの断片をつなぎ合わせたような編集がなされていて、殺されて非業の死をとげる数ヶ月前のジーンセバーグとベルベットアンダーグラウンドのニコが、その映像の中でとにかく泣いたり笑ったり感情を激しく発散させているのだが、笑っている瞬間、泣いている瞬間、ただ外に立ち尽くしている瞬間に、ふっとレンズを見る彼女達と画面を通して目が合うのだ。よく、カメラ目線と言ってレンズ越しに人と目を合わせる事も多いのだが、「孤高」の中で、白黒の、無音の、映像の中で彼女達と目と目が合った時、全身に泡の様な鳥肌が立つ衝撃が走った。人間の目に宿る、目に映し出される瞬間の、人間のむき出しの、命そのものの放つ力に、改めて気付かされてしまったのだった。目と目が合うというあまりにも単純な動作の瞬間の中に火花がぶつかり合う様な強い衝撃が走っているとあらためて気付いた事を、思い出した。森美術館は六本木ヒルズのほぼ最上階に有って、順路から出口をくぐると、夜の東京の街が展望台から少しだけ見えた、美術館の中よりも展望台の方がよっぽど人が沢山いて、展望台の大きな窓のまわりには人々が飽きもせず夜景を眺めながらゆっくりと楽しそうに話しをしていた。一人の人間の作品があの夜景よりひろく人々にゆっくりとした楽しい時間をあたえる事が今後はたしてあるんだろうか、ないんだろうか。など思いつつエレベーターに乗った。

2006.12.16

12/16

ここ数年きまって、今年も早かった、などととは思うものの、師走だの、年の瀬だの、新年だのという気分的にも時期的にも、節目になりそうな瞬間をなんら感じないまま、気がつけば2月、と言う具合でズルズル年をまたぎ続けてきた。正直その事についてはどうだっていいのだが、街では、この時期明らかに人々が老若関わらず、そわそわしはじめる。街全体がそうなのである。そわそわしている群衆の中に明日死んでしまう程そわそわしなければならない人間はいったい何人いるというのだろう。死んでなければ、明日は来るしその次の日だってきっとくる。今日別れてもまた会える。自分の育った家庭は子供の頃から世間的なイベント事からは常に距離の有る生活をしていた、両親は時間の区切り目無く働いていたし、父親の方は他に家族を幾つか掛け持ちもしていたので時間の感覚が一般的でない多忙な家庭であったのだ。そういった環境に育つと、もう最後の日みたいに年の瀬だけまわりがそわつき始めるのは、見ていておもしろくかんじるのだ。そういった訳で年の瀬にはあまり興味がわかないがそわそわしている人は見ていて面白い。人は結局勘違いをする事で生きていける。自分は、いい事も悪い事も自分自身に対する勘違いはおおいに受け入れているが、テキトーに受け入れた勘違いどもとその後、地味で気分の冴えないドツキ合いを続けるはめになってしまうのだ。その結果自滅する可能性は大きい、が、そのまま勘違を直進した人間が何時しか自分の見たかった世界に突き当たる瞬間をむかえるかもしれない。その代わり勘違いのほうき星にでもしがみつく様に、勘違い一直線で生ききれればの話しだろうが。その瞬間をむかえない人間達がこの世の中の殆どである事も事実だろう。勘違いは発見の母。とにかく気温差の出る季節の変わり目以上に暮れから新年にかけては人々が一年で最も時間というものを実感するタイミングなんだろう。来年の十二月ちょうど一年後の今頃になるのだが、東京都写真美術館での作品展示がきまった。もちろんワンマンショーという訳にはいかないが、今の所4名ほどで都写美の会場を分ける予定だ。今年の個展の倍くらいの展示スケールにはなるだろう。他のメンバーが誰かは知らない。写真を撮り続けるという事に変わりはないのだが、作品発表の機会というのは自分以外の人間から持ち上がった話しだとしても、常に前向きでいたい。自分が行動を起こしていく以外の所から引っ張られるというのは自分が今まで出して来た作品の波紋が帰って来たようで、何が起こるのか、その時の流れに身を任せてみたくなり、どんどんと巻き込んでもらいたいと願っているから。

2006.12.14

12/14

自分は何時何時でも快感を得たいと思っているから、その為ならぐっすり寝ている時に叩き起こされても布団から飛び起きるだろう。しかし、現在、普通一般的に面白いとされているもの流行のものそういったものの中に自分が快感を得られる出来事は無と言っていいほどで、自分が直接に関わる他人とのコミュニケーションや、人の心がプラスにでもマイナスにでも、どのような方向にでも動いていく瞬間をながめたりしている時の方が楽しい、だから、結果的に写真を撮っているという言い方も出来るのかも知れないが、今の自分が一番楽しめるものが写真という事になる。とにかく、面白く、気持ちのいい事優先であるという事に間違いは無い。がしかし、お楽しみが向こうからネギをしょってやって来た事など今の今まで一度も無い。十年前ほど前にバイクの自損事故で折れた前歯に彫刻をしてもらって足りない歯をくっつけてもらっているのだが、その彫刻部分がたまにばきっと言う音をたてて折れる。時間的に歯医者に行けなかったので、笑うと前歯の1本が無いという状態で今、二日間過ごしている、昨日はスパゲッティを食べるのに往生した。思えば十年前、渋谷の安い酒屋で深夜まで記憶が飛ぶほど酒を飲んでそのままバイクを運転してしまったのだ、ゴリッという頭の中に響く鈍い嫌な音で我にかえると、渋谷のNHKの門の近くでバイクごと転倒していた、バイクに乗った記憶も無く、ヘルメットは背負っているバッグの中にしっかりとしまってあった。顔面からアスファルトにディープキスをしにいったことになる。まるで死に顔を蹴り上げられた様な不吉な味が血と一緒に口に充満していたのは忘れられない。その時深夜という事もあり後続車はなく、自分が他の車にはねられるという危険は避けられたが、一人まわりを見渡し、無意識で顔を守ろうとした両手のひらが、グローブもしていなかったのでズルッと擦りむけて出血をしていたが、酔っているから痛みはそれほどでもなく、バイクを起こしてバイクを再び走らせようと試みてみたが、転倒の時に壊れたエンジンのギアが二足までしか上がらなくなりアクセルを回すとエンジンのけたたましい音が深夜の街に鳴り響いた。しかし、騒音をまき散らしながらでも家までバイクで帰るしか他に方法は無く、タイヤを支えるフロントホークが衝撃で曲がっているふらつくバイクを、なんとか走らせて家まで辿り着いたのだった。北野武氏が、50CCのスクーターでやった事故に近い状態だろう、自分の場合は200CCのバイクでそれをやったが。自分の方がはるかに軽症で済んだのは運が良かったのだろう。あの事故車にまたがって何かから逃げる様にして走っていたとき、背中には妙な清涼感があった。テンションが上がっていたのだろうか。さて、歯を彫刻して付けてもらいにいこう。

2006.11.05

11/5

鶏肉を食べる、ハツを買って来て包丁で切り目を入れて串に刺す。一串に四つ突き刺す、四本をガスコンロで焼く、大した事ではない。ビールを2本飲む。大した事ではない。やっと走り出した自分の人生を、大した物だとは到底思えない。沈み行く真っ赤な大きな太陽を眺めながら、大した事だと思えない、大人が泣いている、大人はむやみに泣くもんじゃない、鳥が殺せ殺せというから、俺は鳥を食べた。友達が笑っている、友達が離れて行く、便意を憎む、肉欲に焦がされる、鳥の皮膚も焼かれて焦げていた、しっかり食ってやるから成仏して下さい。今日は何回人と目が合っただろう、知るか。ごろつきが、端っこで、こちらを見ている。予定調和がこちらを見ている、予定調和に話しかけるが無視をされる、雨の中傘をさしている、私はやっと正気になったのだろうか、何にも乱されない自分がいて何物にも乱される自分がいて、友人と旅した香港の、写すべきもののない港を撮る、バンドの音楽がきこえる、撮影スタジオの端っこにある、小さなスピーカーから、ソニックユースが微かにきこえる、思わず近づき耳を澄ます、仕事仲間の一人が、不思議そうにこちらを振り向く、つながらない携帯電話を壁に投げつける。博多の輝かしい、もつ鍋や、餃子、ラーメン、天ぷらまで、襲いかかってくる。彼らはうまくかわしながら、生きている。何度でも、会いに行きます。馬がよだれを垂らしたって知らんふり。そこに足がにょきにょき生えていて、私はじっと見つめる。そんな私を見ないで欲しい。一日が過ぎて、腹が一日中ぎゅるぎゅる鳴り続ける、きっと、ハツのせいだ。

2006.10.16

10/16

まず、個展を無事終了させて頂けたという事をご報告させて頂き、そして今回の個展を自分も楽しむことができたという事に心から御礼申し上げます。ギャラリーの皆さん、オーナーの小松さん、関係者の皆さん、ご来場頂いた皆様、そして、沢山のお花を頂き、ありがとうございました。そもそも、自分の中で立てている計画という計画は、現在も無く、生活の中にもそういった計画的な方向で進む物事はほとんどありません、無計画に写真は撮っていますが、個展開催にたどり着く為に必要だった事の一つは計画性でした、この写真をどこに置くとか、大きさはどうするとい事は、瞬間的な事だとはいえグッと考え込んでしまうのに、数字的な話しや、スケジュールの話しは用心深く何かに書き留めながら覚え込もうと努力しておりました。数点の写真があの個展会場から新しく受け入れて頂く、落ち着き場所に、一人で歩いていきました。新しく行き先の出来た写真たち、元気でなー。そして、お買い上げ頂き、誠にありがとうございました。自分の人生でのプリント販売処女がまさに自分の目のまえで、しかも、オープニングの日に奪って頂けたという大幸運にも恵まれ、今回の個展「ラッキーか?」は、自分の中では決して忘れる事の出来ない貴重な体験となりました。そして、以前このページでもお話しした、写真家の中平卓馬さん、その後日、ご自身が今度は違う方をお連れになりもう一度会場にわざわざお越し頂いていたという話しを、オーナーの小松さんからお聞きして、中平さんご自身の中に今回の個展の何かが、良い悪いは別として、微かな印象としてでも、もしも、ひっかけて頂けたのであれば、個展開催の意味がさらに深いものになるのではないだろうかと考えております。あっという間に8日の最終日から1週間が過ぎ、この間にもすでに興味深い出来事がいくつかありました、その一つにフィオナアップルの来日講演がありました、彼女とは99年に撮影をさせて頂いて、同時に自分の当時刊行されたばかりの写真集「目のまえのつづき」を撮影現場のアメリカまで持参し手渡し、フィオナはその「目のまえのつづき」に対して興味と反応を示してくれて、それ以来のお友達関係という事になり、(勝手に友達と呼んでいるのではなく、その99年当時に写真集の感想を、私は彼女の直筆の手紙で受け取り、その文の末尾にユア、フレンド、フィオナ、と書いてあったから、この表現に間違いはないはず、これは一つの自慢のようです。うざいですか?とにかく私は彼女の曲がすごく好きだっただけにとても、嬉しい出来事でした。)レコード会社ソニーの小沢さんの厚いお計らいのもと、今回のフィオナの来日公演のタイミングで、まさに再会の運びとあいなり、それはライブ終了後、楽屋にて行われるはずだったのだが、楽屋に向かう途中、にわかに便意に襲われた私は、トイレに立ち寄り、やっと楽屋に着くと、もう、フィオナは会場を後にしてホテルへ向かってしまったという、数年ぶりの待ち望んだ再会も一瞬の便意によってまさに水に流れてしまった、あ~あ、なんて思っていると、ソニーの小沢さん、さらなる厚きお計らいにより急遽、夜のフィオナの食事に同行させて頂ける事になり、かくして、六本木の、炉端や、のカウンターで私とフィオナは再会を果たしたのでありました。小沢さん、本当にありがとうございました。髪型が変わり、体重の減った私を見て、フィオナは聞き取れないほど小さな声で、「ジン、、オオハシ?」とささやき、「そうだよ、ジンだよ、覚えてる?」と返したところで熱き抱擁となり、その後の会話は、お前は嘘をつているだろう、アンド、自慢が過ぎる、と言われそうな内容のためご想像にお任せしますが、彼女は、99年の手紙の中で、この写真集「目のまえのつづき」の中に強い感情と、ユーモアを感じる、という事を書いてくれていた、そう、その当時の反応として、あの写真集からユーモアを感じたと、言葉にしてくれたのはフィオナただ一人だった、そして、あの本はまさに笑いながら見て欲しいと望んでいた私としては、なんて、嬉しい事を言ってくれるんだろうと、その言葉に深い感謝をしていたのだった。という事もフィオナには伝えた。彼女は胸に手をおき、「私とジンは同じ事を考えていると思う」「アイ、プラウド」と言っていた。ちなみに通訳はソニー小沢さんです。いろいろ話したい気持ちはあったのだが、会って彼女の顔を見ていると、もはや言葉も必要としない感覚にとらわれ、話す言葉を失ってしまった。ツアーメンバーの方々と共にもう一軒飲みに行った先で、もう少し、小沢さんの通訳を介してフィオナと会話をして、何枚かの写真を撮り、(今度このページで、デレデレとした私と、7年間変わる事無くかわいらしいフィオナとのツーショット写真をお見せするかもしれない、しないかもしれない)私は先においとをまさせて頂いたのだった。ここからは、私の勝手な妄想の世界に入るのだが、それぞれの人間たちが、それぞれの生きて行く方向性を持って、それぞれが独自の人生を歩いていくものだと考えているのだが、フィオナの顔を、目と目を合わせて話していると、自分にこんなに近い感覚を持っている人がこの世に居たんだなと、ごく自然な、しかし、何とも心地いい不思議な感覚を持ってしまい、心がとても穏やかに優しく、静まり返るようだった。温かい静かな大海原にゆっくりだっこされているような感覚、その感覚は今も残っていて、僕の気分を優しく鎮めてくれている。不思議だなと、思うのだ。これは、世界中で彼女に遭遇した人全てが思う感覚なのかもしれない、いやだ、俺だけの妄想にさせてくれ、、ムム、、しかし、だとすれば、フィオナ、君は、なにものなんだい?会えて本当に嬉しかったよ、ありがとう。

2006.10.01

10/1

ここ数ヶ月間、家にいる時は毎日、毎日、僕は一人のおっさんの写真を眺めて暮らしている。前にもこのページで書いた事のある子供の頃からずっと大好きで、そして憧れの人であった建築家のおじさんの、亡くなる三ヶ月ほど前のポートレイトである。その写真のおじさんは、抗ガン剤で抜け落ちた白い髪をわずかに残していて、病院のすぐ下のスターバックスのテラスのイスに腰掛け、両手をテーブルの上に投げ出しているのだが、その右手にはコーヒーの入ったスタバのコーヒーカップを握っていて、その握っている手の人差し指と中指の間には短くなったタバコが火のついた状態ではさまれている、表情は強力な抗ガン剤治療での激痛に、火の中に、身を投じているの最中の人間の顔とは思えない冷静そのもの、そしてどのような表現も入り込む隙もない、ただ、生きているというだけの全くのフラットな表情なのである。薄ら寒いスタバのテラスでおじさんは、何本かのタバコをすって、コーヒーを飲んだ。僕とおじさんは、ほとんど口をきく事無く、黙って、二時間ほどそこに座っていただろうか。テラスにおいてあるスチール製のイスを座る為に引いた時、地面のアスファルトとスチールイスの足がこすれて、ガガガガガっという妙に頭に響く音が、今でもはっきりと頭に残っている。おじさんは、なんびとからの干渉も一切受けずに突っ走った人だった、あまりにもバカで小さな僕は、あの時と同じく、今でも毎日、そのおじさんのポートレイトをじっと黙って見つめている。そんな事をしている僕にきっとおじさんは、「ばかやろう、俺はホモじゃねえんだから気持ちの悪い事をするな。」と一瞬せせら笑ってまた、その視界から全く僕の事をはずし、すっと風のように目のまえから居なくなってしまうだろう。自分が出会った最初の真っ裸の精神状態で生きている他人だった。その当時に付き合っていた女の子の父親であり、そして、建築家で、彫刻家でもある、おじさんと、僕は中学生の時初めて会って、わけも解らずにその言う事なす事の正面から来る強さと、鋭さと、単純んな気持ちよさに,ただただ、憧れた。その感覚はこの現在もホモのように一人の男の写真を毎日見つめている自分の状況からして一切変わってはおらず、かえっておじさんへの気持ちはその生前より身近になっている。亡くなった事が、自分の予想以上に今の自分の精神に衝撃を残しているのだろう。つい数日前になるが、撮影で北海道に行く為、飛行機に乗ったのだが、座席に座って即眠ろうと目を閉じるが眠れない、しょうがなくアイマスクを外して前方にあるテレビ画面に目を移すと、ニュース番組で安倍内閣が誕生して、多分首相官邸であろう場所に、新大臣達が続々と激しいフラッシュを浴びて入って行くのが見えた、僕は涙を流して泣いていた、ちょうど、中島らもを、読んでいる最中で、このおっさんもよっぽどの素っ裸で生きていやがったんだなと、心が躍っていた最中でもあり、その、中島らもの本は、おじさんと最後に会った日にその病室の枕元においてあった本で、おじさんが、その死の間際に読む本とは一体何ぞやと思い、僕は瞬間的にその本の作者と、題名を、自分のあやしい記憶に焼き付けた。さっきも言ったが中島らもさん、いや、らもという人は、精神的に、すってんてんの素っ裸で、生きていたんだろうと、自分にとっては、なんて、清々しく、気持ちのいい人なんだろうと、勝手に嬉しがっていたのだが、フラッシュを浴びながらバンザイを繰り返している背広に身を固めた政治家たちの映像の後ろに、大きな眼鏡で、ガリガリの素っ裸の中島らもが何とも楽しげにねっ転がって柔らかく笑っている姿が脳裏に浮かんだ、中島らものそのすぐ横には、亡くなったおじさんが、まるで少年そのもののいたずらっぽい視線をこちらに向けている、勝手に流れたニュース番組を見て、固く武装されて生きている政治家達の得体の知れないどこかへ突き進もうとする姿と、まったくの素っ裸で、なんとも気楽で、楽しそうな二人の死んだおっさんの素っ裸姿が突如頭の中でオバーラップを繰り返した。あまりにも両極の、あまりにも逆の命が、頭の中で重なり合って、涙がアホのようにボロボロとでた。自分は狂ってしまったのだろうか。考える間も無く、この時間の波の流れと人間という生き物そのものの姿を一瞬体感してしまったかの様だった。自分にとってはあまりにも不意の出来事で、少し驚いたくらいだ。一人で朝から座席に座ってニュース番組を見てただ泣いている怪しい男に対して、客室乗務員の方が優しく濡れティッシュを差し出してくれた。「お体お気をつけ下さいね」と静かに笑ったその人のその時の顔も忘れられない。僕は泣いていただけだったのだが、どこか、頭の具合でも心配してくれていたのだろうか。

2006.09.10

9/10

昨日の夕方、個展会場へ行った、写真達はまだじっとしていた。ギャラリーのオーナーにご挨拶をして、何とはなしに芳名帳を見たり、アンケートを見たり、数分やっていると、今年結婚したばかりの友人ご夫婦が来訪してくれて嬉しくて思わず立ち上がって近づこうとすると、そのすぐ後ろから、子供の気配を持ちながらにして、どこか自分の知らない遠い世界を一瞬にして旅をして来た飛行士の様な、上空で光る流れ星の様な瞳が、飛び込んで来た。中平卓馬さんだった。中平さんがいらした事に驚いたのではたぶんないと思う、その、中原さんご自身の持たれる自分にとって未知の空気感に、ドンっと引き寄せられた。中平さんについて行くように自分の写真の前に立つ。中平さんの瞳に吸い寄せられる、自分よりスピーディに動き、立ち止まってはまた、食い入るように写真を眺める中平さんの後をただ追っかけていた。自分はもちろん中平さんを知っていたが、多分一生お会いする機会はないような予感のする方であったがために、個展に対する印象をなんとかお聞きしたくなり、イスに座りゆっくりと、しかししっかりと、自分の二冊の写真集のページをめくり眺めている中平さんに何度か話しかけたのだが、時折写真集から瞬間的に僕の顔をきわめてシャープな印象の視線でのぞき見るような仕草を中平さんは見せた。ドキッとする。友人のHさんも中平さんに話しかけてくれるが、中平さんは、「いま」「目のまえのつづき」を、しっかりとながめながら、遠い過去と、近い過去、そして一瞬にして現在を横切りながら、僕の写真一枚に対する、構成に対する、展示に対する印象を小さな声でのべられていた。聞き取れたのは「びっくりした」「衝撃的だったの」「この写真の横にこの写真が来るなんてねぇー」というお言葉だった。もうすでに、何かを中平さんから聞き出そうという気持ちより、その瞳に、体の動きに釘付けだった。一時間半以上は会場に居られたと思う、偶然にも中平さんにお目にかかれた事を、Hさんに感謝したが、写真という自分には、まるで得体の知れない、恐怖でも喜びでもない自分の中の他人をひんやりと見る様な奇妙な存在感をじっとりと感じた。個展がはじまって五日目の夕方の出来事。

2006.09.07

9/7

今も広尾のギャラリーで私の写真達がじっとしている。じっとしていなかったら面白いのにな。オープニングパーティでは、沢山のお花を頂き、そして、お忙しい中、わざわざギャラリーまで足を運んで下った皆々様、誠にありがとうございました。かれこれ夕方の6時ぐらいからギャラリーでワインを飲み始め、ご招待の方々がちらほらとお見えになる中、ふと見ると、久しぶりの我が母と、兄がやってきていたが、ほとんど話さないまま二人は帰ってしまった。宴は続き、10時頃に二次会の会場である和民へ移動。久しぶりで会う人たちが集まってくれて、ウイスキー6本以上、焼酎、ビール、等々、扁桃腺がやっと静まった咽に流し込み、楽しい二次会も中盤あたりからほとんど意識が無くなってしまった、写真家の大森さんが二次会にも顔を出してくれて、うれしくてついつい飲み過ぎてしまった。大森さんの笑顔は素敵だった、話しの内容はいまや定かではないが、とてもイけてる発言に心から同感の意を覚えつつそのまま私は白い世界へ入りました。白い世界で私は何をしていたんだろう。家に着くと全身がびしょ濡れだった。せっかくの会だったからもっと話しをしたかったが、私のアルコールキャパシティをその日の摂取量ははるかに超えていた。人間とは恐ろしい物で無意識のうちに「うこんの力」を私は4本飲んでいたそうで、そのかいあって翌日は強烈な下痢をした意外は、ちょっとした吐き気があるだけですんでしまった。この個展がどのように最後終るのかなんとなく楽しみだ。まったくなにも無かったりして。なんなら個展では異例のエンディングパーティでもやってもう一度盛り上がりたい気分ではあるが、きっとそれは片付けをおえて疲れた顔をしたアシスタントと帰り道のラーメン屋ですることになるだろう。

2006.09.04

9/4

今日は明日からの個展の写真の搬入をしてきた、正直体がグッドコンディションではなかったが、18点の写真を壁にかけるのは時間のかかる作業であり今日はこたえた。家に帰る車の中でソニックユースをきく、何度聴いてもやっぱり、最高。ソニックユースのドラム担当様といつかお目どうりがかなう日が来たならどんなに楽しかろう。冷蔵庫を開けようとして殺気を感じ後ろを振り返ると殺虫剤スプレーの缶の頂上に、ゴキブリが休んでいた。前にも同じ状況があった、またも。殺したいのはやまやまだが、ヤツも自分も疲れているし、なんせ、そんな状態ではとても手を出す気にもなれず、その場を離れる。タイで一番恐れられているマフィアは、警察官だったのを思い出す。ポカリスエットはうまい。今日は特に。今日のよる飯はカップヌードルカレー味を食欲が無いので半分と青汁、ヤクルト一本。これがまさに、現代の完全食だろう。

2006.08.27

8/27

まったく、毎日毎日、僕は泡を食う。まったく何でも無い、瞬間で消える泡を必死でかきあつめ、口に詰め込んでいる。自分は何をやっているんだろう。古代エジプトでピラミッドでも作る人足にでもなったほうが、よっぽどなにかをした気分になれるはづだ。個展の準備と仕事、毎日やっと忙しい。忙しいのは嫌なくせに、なにもしないではいられない。死ぬまで輪っかをまわし続けるネズミのようだ。ちょっとした気持ちよさを味わう為だけに生きている、生きる為に生きるのはごめんだ。一人へ理屈だが、今日の為に生きる。命はつながって行くだけ。こうして、地球上の人類はもうすぐ滅亡してしまうのだろう。あれ、俺だけか。やりたいようにやるやつは、勝手な奴としてまわりから排除される、ゴミ袋からはみ出したゴミは、結局誰かのてによって拾い上げられ、どこかに連れ去られる。犬の胃袋へか、近所のおばさんか、カラスか、風か。よけいな事をしている、よけいな人間がいる、これはまぎれも無い事実で、きれいに収まらないゴミは、今日も誰かの手によって始末される。悲しいのやら、うれしいのやら。

2006.08.07

8/7

山形芸術工科大学という所に行って来た。わざわざ足を運んで頂いた皆さんありがとうございました。大学関係者の皆さんお疲れさまでした。山形は花笠まつりの真っ最中で夕方の山形駅前は人でごった返していた。山形の夏はとても短いそうだ、昼にごちそうになったそばがすごくおいしかった。「いま」のスライドを見ながらのトークショウとなった。一人のお母さんが、会場で、マイクで「今日は中学生の娘を連れてこようか迷ったけど、やっぱり連れてこなくてよかったです。私は出産をもっときれいな事として娘につたえたいから。」と、丁寧に感想をのべられていた。あるお母さんは、「写真に全く興味がないけど、来てよかった。」と感想をのべられた。ある女性からは「目のまえのつづき」から見ているから、今後もがんばれ、という言葉も頂いた。11冊の本が売れた。本が売れてうれしかった。またどこかで、お会いしたいです。とても、気持ちのいいところでした。

2006.08.04

8/4

少し前の夜中になにか2~3時間このページに書き込むべくまたアホな事をパチパチと打ち込み、打ち込みして、はーぁ気がすんだなぁなんて、思っていた頃、自分の指のどれか一本が、このマックのキーボードのどこかにさわり、パッと、数時間にわたりこねくり回した私の気分のはけ口が真っ白に消えた。あまりの消えっぷりに気分すっきり。そして、すっきり、このページに対してやるきを失っていた。そんな今日まででした。あれが、世紀の大発明とか、解くのが不可能とされた数式の答えとかだったら。。
本日が、8月3日木曜日です。私は、山形にある、東北芸術工科大学の、こども芸術教育研究センターという所で、午前中から夕方まで、写真集「いま」のスライドショー形式のギャラリートークなるものを開かせて頂きます。写真も展示しています。山形の方、山形のお近くにお住まいの方、8月6日日曜日、大橋はそちらにおりますので、もしよろしければ。。

2006.06.24

6/24

我が家の契約更新2年に一度、サッカーワールドカップ、4年に一度、なんとか彗星、何十年に一度、自分には子供が生まれるんだろうか、街を自転車で走るお父さんと小さな息子を見ていてふとよぎることがある、深夜のタクシーの群れ、風の谷のナウシカの光る目を持った巨大なだんご虫の暴走する群れ、人生とは自分が自分の人生の中で計画した事以外に起こる出来事だと、どこかの本で読んだことがある。夜中に虎ノ門付近を車で走っていた、虎ノ門病院で亡くなったおじさんを思い出す。家を建て家族をつくり、貯金を残して老衰で死ぬ計画があったとする、一方酒を浴びるように飲み、稼いだ金全てを使い切り、死が早く訪れる事を知りながらスピードを落とす事なく突っ走る。どちらの生き方が計画的なのか?実は後者の方が、計画的で緻密で確信的な自分自身の強い意思があると感じてしまう。もちろん、どちらがいいか?という事ではまったくない。安定とそれの継続。その先。麻布のエモンフォトギャラリーで、9月5日から、10月7日まで、一ヶ月間、東京では初の個展をやらせて頂く事が決定しました。みなさんも、なんとか生きのびて、まちがいで、ギャラリーに足を踏み入れて頂ける事を祈っております。自分もなんとか生きのびたいと考えております。今年の初詣に、ここ数年扁桃腺から出る高熱に悩まされ続けていた自分は、今後10年間まったく扁桃腺が腫れなかったら、10年後にぽっくり死んでもいいですと、お願いしたかいがあり、今年になってからまだ一度も高熱を出していない。浅草の神様は願いを聞いてくれるのだろうか。

2006.06.03

6/3

9月に広尾にあるエモンフォトギャラリーという場所で、一ヶ月間、写真展をやる事が決定しました。タイトルは、大橋仁 写真展 「ラッキーか?」である。意味は、この言葉そのままです。しかし、この言葉はいったい誰から誰への言葉なんでしょう、?マークが付いているので、ある疑問を、誰かが誰かに問いかけているのか、はたまた、自分自身に対する言葉かも知れないし、物事自体を根本的に疑っているのかも、自分にも計り知れない所がこのタイトルには有るのだと思います。今回の写真展が決まってから、タイトルを付けようと思っているある時にふと、誰かに、突然こう囁かれた気がして、その時からこの、「ラッキーか?」という言葉が頭から離れなくなってしまい、どうしょうもなく、このタイトルに決めてしまいました。あの時自分に話しかけたのは、いったい誰だったんだろう?。この言葉自体が、今も勝手に自分の頭の中を泳いでいて、この先この言葉自身がどういった変化をするのか解らないのですが、とにかく、自分の中では泳がせてみたい言葉なのです。今回の展示は去年の4月に刊行された「いま」という写真集を核とした展示になる予定ですが、過去の作品から最近の作品まで、未発表の写真も多く展示する予定です。作品の内容としてはそうなのだが、今回の展示の主眼は、一枚の写真の、プリントの持つ世界観をどうやって来てくれた方々に見せる事が出来るのだろうか、という事なのです。もう、タイトルの事は忘れて頂いていいです。それだけのことなんで?、え?、なんて感じです。展示の細かな情報はまたおって、このホームページ上でお伝えいたします。

2006.05.10

5/10

水泳をやった、入場料400円スイミングキャップ代520円、家から自転車で3分、海パンが無かったので、アウトドア用の短パンをはいてプールにゆっくりつかる、もうすぐプールも終わる時間だったので、人はひかくてき少なかった、競泳用の50メートルプール、最初の一本はクロール、自分で驚いたが、25メートルあたりで手が重くなって呼吸も辛くなって立ってしまった、しかし、もう一度泳ぎ始め、150メートルを過ぎたあたりで体は楽になった。運動不足そうなおっさんが必死でクロールしていて、水中でくねくね動くおっさんの姿は妙にかわいいなあ、なんて頭の中で人を笑っていると、25メートル付近で呆然と立ち尽くす自分も相当かわいい状況なんだろうと、我にかえる。休み10分入れて、50分で、1200メートル泳いだ。久しぶりに泳いだ。18の時、スペインの南にあるコスタデルソールで、多少泳ぎに自信があった僕は一人で沖まで泳いで行った、けっこう波の高い日だったがどんどん沖に向かった、プカプカと仰向けで沖に漂っていると、その沖合のけっこう高い波間に、バタフライでガンガン泳いでいる女を発見、何故か負けじと自分もバタフライを見せつけ、彼女に追いつき、沖合でほとんど解らない英語で会話をする、その娘は、ドイツ人のバックパッカーで、僕より少し年上で、女の子なのにライフセーバーでもあった、とにかく浜に戻ろうという事になり、競争したが、彼女の体力は尋常ではなく追いつける分けも無く、おまけに真夏なのに地中海の海水はすごく冷たく、泳いでいるうちに片足がつってしまった、まだ、浜にいる人は相当小さく見えているので、溺れないよう体制を立て直そうとしたが、波が高く海水を飲んでしまう、まづいと思っている所に、彼女は戻って来てくれた、ライフセーバーの彼女、泳ぎながら肩を貸してくれて、ようやく浜についた、僕は、みごとに救助された。浜につくと、彼女は微笑みながら去って行った。彼女は痩せて溺れかけ、英語も話せない東洋人をどんな風に思った事だろう、美人という感じではなかったが、さすが、ライフセーバーだけあって、手と足は筋肉がたくまししく発達していてその美しい体に見とれてしまった。いまだにはっきりと彼女の顔まで思い出せる、海の水は冷たいのに浜の砂は強烈に暑く、トップレスのすごく太った婆さんを眺めながらビールを何本も飲んだのを思い出した。

2006.04.29

4/29

夜八時くらいに、新宿のコマ劇あたりを一人でうろつく。歌舞伎町はみんなに等しく居場所が無いという感じがして好きだ。ちょっと肌寒かったが、ぼーっと突っ立っていた。コマ劇前にしては人が少ないように感じたが、街行く人の姿をただ眺めていてた。強いということ、弱いということ、眺めているだけなのに、なんだか、自分に直接素手でふれてくる感情がいくつも近づいてくる。スーツ姿の東洋系の外人男に片言の日本語で「なにかおさがしですか」と話しかけられる、「なにもさがしていない」と答える、「いいヘアスタイルですね」と言い残して男は消えた。なまあたたかい風みたいな人だった。21才の頃ロバートフランクにあるワークショップで会った時に、彼は、街角で写真を撮るでも無く、ただ、そこに座ってなにかがくるのを待つ、と話していたのを思いだした、ただ、待つということ、なにもせづに。壊れている自分が見える。泡を食って小躍りしている。
ひさしぶりに、ゴールデン街へ行く、その店のママに会いたくて行ったのだが、ママのパートナーであるコテツさんは、「キヨは、引退したよ、すべてが嫌になったんだってさ、去年の秋だよ」といっていた、僕は「もうキヨさんは永久に戻ってこないんですか」ときくと、「永久にもどってこないよ」とコテツさんは言っていた。カウンターのみの店には男の一人客が多かった、焼酎のミルク割り、ミルチューを3杯飲んで帰った。

2006.04.23

4/23

自分の写真を写真集という形ではなく、ギャラリーなどのスペースで、展示という形で、見てもらいたい、とかんがえている。去年10月に福岡でやった初めての個展で、展示の気持ちよさをあらためて感じて以来、次の機会をさがしていた、ようやく東京でも写真展示の機会がやって来そうだ。実現すれば東京での個展は初めてになるのだが、プリントで写真を見てもらえるということが楽しみだ。大橋の写真集はどうしても構成に目がいってしまうという人もいて、一点の写真として構成から切り離して想像するのがかなり難しいという声もある、たぶん、夏から秋にかけてのタイミングになると思うのですが、どのようになるのか、見に来て下さい。

2006.04.14

4/14

中国より帰国、上海、杭州、瀋陽、と回って来た。仕事がらみではなく、すべて私事、自分の作品の為だけの旅だった。 はじめての中国は、まず上海に入ったのだが、なぜだか自分は今中国にいるのだという実感がなかなか湧いてこなかった、上海はすでに完成されつつあり、近代的に整備され、東京を歩いているのと大して変わらない感じを受けた、世界中発展する都市の目指す方向は同じなんだろうか、なにか、味気ないように感じてしまう。上海から離れると感覚は一変してやっと中国に入った様な気分になる人間くささを街からやっと感じる事が出来始めたのだろう、人間くささと言ってよいのか解らないが、地方都市は貧富の差がさらに歴然として、人間界の構造をそのまま見せられているようだった、東京では、日本では、見た目、貧富の差を感じる事は難しくなって解り難いのだが、中国ではそれを、まだ、はっきりと、目で見る事が出来た。腹の減っている動物は腹を満たす為に餌を求め体力にまかせて夢中で走りつづけるが、その心には創造力を持つ様な余地はない。逆に、満腹の動物は体力を使う事をさけ動こうとはせずに夢にふける、多くの人間の集まる都市とはそんな動物に似ているのかもしれない、満腹でも走り続ける事の出来るそして、創造力を求める心の余地を持つ事のできる、そんなタフな都市ってあるのだろうか。もう、こうなると、大きな集団ではなく個人でしかそういった存在は無くなるんだろう。腹がいっぱいでも、腹が減っていても、走る事の出来る存在として。いつも、旅から帰り家に着くとすぐに旅で使った洋服を洗濯する、けっこう奇麗好きな方だとは思うのだが、旅で使った服は妙に色々な気持ちがこもっているようで、一人の人が寝ているみたいで、さっさと始末しちまおう。

2006.03.28

3/28

撮影が終わって、風呂に入って、植物に水をやる。色々な人に会えて楽しい。会っても会っても、どんどん知らない人に出会い、ご挨拶をする。今日はチョコレート菓子を、撮影の合間にたくさん食べた、撮影後、アシスタントは弁当の残りの釜飯を3つ食べていた。首都高を走り家に着く。うがいはかかさない。4月中国へ行く

2006.03.22

3/22

酒は嫌いだ。二日酔いの朝の体と気分は最も嫌いな状態だ。しかし離れられない。付き合い方が問題なんだな。買いだめしてある液キャベを飲んで、日課の冷凍青汁を水を張ったボールに入れて解凍のセットをしてテレビをつけてしまったら甲子園の開会式の始まる所だった、はじめて開会式をみた、学生や、音楽隊が行進していて、整列していて、皆丸坊主で、この丸坊主頭達も今は髪がはえ揃っているが、この中から何人かは禿げる人が出るんだろうな、なんて思いつつ、昨年の優勝校の生徒が大会旗を返還しているのだが、その生徒達は今大会には出場できず、出場校の生徒達が整列する中、ただ旗を返しにだけやって来た昨年の優勝校の二人の学生の表情は硬かった。もっともな顔をして旗を受け取る禿げた初老男性は新聞社の社長だそうでもっともな感じが出ていて、もっともな顔をして、その歳で、高校生諸君と実は変わらない事を今もいろいろヤってるんば、みたいな感じが出ていて、学生と社長はかわいかった。それを眺めている甲子園自体かわいく見えてきた。もっともらしい顔をしている時の人の表情はかわいいからすきだ。人間を感じられる瞬間がいい。清々しいのも大好きで、朝の甲子園の開会式と、学生は清々しく見えていいものを見せてもらった様な気になった。私は、おかしいのだろうか。今日は長くなりそうだ。かわいいというのは、最高だろう。希望だろう。

2006.03.17

3/17

去年福岡で、自分にとって初めての個展をいろいろと取り仕切って運営してくれた友人達と仕事の後会った。彼らは、それぞれ、服のデザイナーであり、建築家であり、グラフィックデザイナーであり、3人は学生時代からの友人同士である。グラフィックデザイナーのこうちゃんと、建築家の二股くんは、去年二人で、事務所をおこしていて二人の事務所は神宮前にある、三人は、去年の大橋仁展では、それぞれの職種の立場から展示や運営に力をかしてくれた自分にとって大切な人間達であるが、なんとも気持ちいい人間達だ。彼らは自分より3才若い、三人ともに才能ある表現者であると思うが、彼らを気持ちよく思う理由は彼らに共通してそれぞれの理想に向かって突き進む迷いの無い感じを受けたからだと思う。自分は彼らの為に何一つしてあげられる様な事は無いのだけど、ああいう清々しい進む力と一緒に居ると楽しかった。楽しかったから、いっぱいしゃべってしまった。きっと、しゃべりすぎだろう。過ぎたるは及ばざるが如し、というが、自分の行動のほとんどは、きっと、それなんだろう。でも、自分は別として、やりすぎな人はだいたい好きだ。もうちょっとしゃべろうか?
それにしても、このページを始めてから見ている人がものすごく少ないのに驚いているのだ、ほとんどの日がアクセス数が一桁で、たまに0の日もある。これがもし自分の経営する弁当屋だったらと思うとゾッとするのだが、さいわいにも、弁当屋は経営していないのでよかった。

2006.02.26

2/26

たいして好きじゃなかったタイ料理が、好きになって帰ってきた。タイは最高だった。死というものに根本的に恐怖感の薄い国民性なのではないかと初めて行った時から感じていたがやはりそうなんだと今回も思う。タイという国は、精神的な重力が地球でもかなり軽い場所なんじゃないだろうか、街にいるだけで楽しくなる。たまに、いらつくが、それも楽しい、犬と人が同じ顔をして歩いている。(言葉上の誤解はあえて解きません)自分も犬みたいになって歩いていたんだろうか、だったらそんなに嬉しい事はない!撮影は色々と予定変更をよぎなくされたが、内容はまづまづというところか、うん、ちょっと、真っ白ふう。自分がいなくなっていくと、その分人に近づけた様な気になる。自分にとって、それはきもちのいい瞬間である。そう、自分が気持ちよくなりたいだけ、俺が気持ちよくてもそうじゃなくても、写真上は自分がそう言う気分になればいい写真が撮れるのかというと、それは関係ない。スリルを楽しんでいるだけのような浅い快感に落ちてしまっては面白くないが、リスクのある撮影には、緊張のある撮影には、人と人との一瞬の、かなり密度の濃いコミュニケーションがかわされている様で、なんとも魅力てきなのだ。お互いに自分の肉をこすり合っているような感じがして、これだよな、と思う。タイについては、思い出して、またつづきを書きたい

2006.02.03

2/3

今月はまた、タイに行ってこようと思っている。来月は、中国。いつもだが、自分が何を撮影するのかわからない。決めようともしていない。ここしばらく、体が真っ白になるような気持ちよさを撮影に求めてしまっている。自分なんかが消し飛ぶ様な人間の世界の中に、飛び込みたいんだろう。現実には真っ白になんかならないと知っている、しかし、なりたい。きっと、撮影している時は必死でピンを合わせて露出を気にしながらシャッターを押し続けるだけだから気付かないのだろうが、きっと、その瞬間はやってきているとどこかで信じながら、写真を撮る。何もわからないが、自分の体が反応してくれる事だけを、祈る。

2006.01.30

仕事中に、非通知で、電話がかかってくる。非通知でかかってくるのは、笹塚の実家からだけだ、電話に出ると、おふくろが、「さくらの犬小屋の床がぬけたから、新しい犬小屋を買ってきて欲しい」との事だった、うちのさくらという名前の犬は、新宿の西口と、東口とをつなぐトンネルの脇に小さな、ペットショップがあって、そこで、ビーグル犬の子供だが、血統賞がついてないので、5万円でいいと言われ、自分が19才の時にバイト代をはたいて、実家に連れ帰った犬だ。おやじは、漱石の我が輩は猫である、が好きなので、猫を買ってきて欲しいといっていたので、自分も家を出るときは、猫を買って帰るつもりだったのだが、予算的に猫は高く、色々回ったペットショップの最後に、積み上げられた段ボール箱の下の方から首根っこをつかまれ引っ張りだされた犬が気に入り、小さな段ボール箱をかかえて家に帰り、おやじが、猫が入っているものと思って、持ち上げると、犬が出てきて、「なんだ、猫を買ってくるんじゃなかったのか、犬なのか」と、少し驚いたような表情をしていたのを思い出す。もう、14年生きている。その小屋も、もう14年使っている、新しい犬小屋を買ったところで、さくらは、後何年小屋を使う事が出来るだろう、実家に立寄と、まず、さくらの犬小屋が見えるのだが、そこから、妙に、人の顔の表情を持った、老犬が薄暗い小屋の中からこちらを向いている。あ、まだ生きてたんだ、よかった。と、ふと思う。さくらが死んだら、我が家は何かが変わるだろうか。さくら。

2006.01.09

今年がはじまった、もう時間が無いと思い、体を動かす。
33才になった、はじめて年齢をかんじた、疲れや、老いを思うのではなく、
ただ、33才という歳を気持ちで、認識したという感じだ。今まで、自分が何才かわかって生きてなかったというきがする。食堂で、おつり無しできっちりお勘定を済ませた感じというか、ちょっと気持ちのいい感じ。あと、30分で撮影に出る。
きもちいい。

2006.01.21

神奈川県立大和西高校というところで、スライドショーをしてきた。ハコは図書室、うまくスライドが見れるくらいの、暗さまで光を落とすことが、出来なかったので、本棚と本棚の間にスクリーンを設置して、狭いハコを急遽つくり、そこで、スライドを見てもらうことにした。観客は、15~6人の高校の生徒。もちろん、校長先生や、教師の方々も、見にやってこられた。「いま」に関してのスライドショーは、去年で打ち止めにしたのだったが、高校生二人から、ノートをひっちゃぶいた紙に鉛筆書きで、はじめて図書室で「いま」を見たときの感想が書かれていて、スライドショーを我が高校でやってもらえないかというご相談と、ついでに、大橋仁にも会いたいというお話を先生の方からも頂いた。即オッケイ。大人である先生が、すすめて生徒たちに声をかけたのではなく、生徒が自発的に先生に相談したというのだから、その声に答えない理由は一切無かったし、うれしいおはなしだった。内容に関しては、出産シーンの数点をカットしてほしいとのことで、こちらとしては、それは難しいと話をさしかえしたのだが、高校側としても内部で色々話し合った結果、なんとかカットした状態でのスライドにして欲しいし、やっぱりどうしてもその状態でも、スライドショーをやってほしいという強いご希望であった。これには、そうとう戸惑いを感じて考えてしまったが、せっかくのアプローチでもあり、撮影者本人が高校生に直接話しかけにそこに行くという意味を考えて、結果的に了承した。学校サイドとしても、父兄連に対しての事をそうとう考えてしまったようだ。本当はね、「いま」のすべてを、大きな画面で見て欲しかった、高校でそれをやる、その事にこそ大きな意味があると思ったのだが。またいつか、そんな機会があったら今度はノーカットでやってみた方がいいと思った。なぜ「いま」という写真集を、ノーカットで見せるのは駄目なのか、駄目ではないのか、という根本的な事から、父兄連とも一緒に、学校全体で議論してもらうだけでも、面白いのでは?と思ってしまった。もはや、写真を見せる云々ではなく、「いま」を起点に、それぞれの考え方の交換会になってしまえば、それこそ写真集冥利に尽きるのであるし、自分の作品としては、そういった考え方の違う人同士の話し合いのきっかけにだけでもなってくれることこそ、本望なのである。

2005.12.31

今年は、二冊目の写真集、「いま」を出させて頂き、前回の、「目のまえ~」を出版した99年以来、自分の写真集と多くの時間を過ごさせて頂いた年となりました。自分の中では、この6年間はけしてのんびりしていた訳ではなかったので、あっというまの六年ではありました。次の写真集にむけて、というより、今後の作品に自分はすでに向かっていて、もうほとんど、ただ生きているだけのような自分ではあるのですが、なんとかして、気持ちのいい瞬間を追い求め、その瞬間の為に、進んで行きたいと思っております。今年ご迷惑をおかけし、お世話になった皆々様に、お詫びと、お礼申し上げます。来年からも、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

2005.12.13

第二版が刷り上がり、第一版と見比べてみた、つくずく印刷の奥深さを感じた。
第一版の印刷は、写真集全体のトーンをできるだけ一定にそろえつつ、シャープで、かたい感じのある印刷になっていて、一番最初に狙っていた方向にずばりはまっていく感じがあり、とても私好みで、嬉しかったのだが、今度の第二版は、1ページずつの、一点ずつの、写真をいかに強く見せられるかという事にこだわっており、第一版の様な統一感は薄くなったものの、それぞれのページの写真がさらに、鮮明に、立体的になっており、見終わった最後の印象が変わった。第二版を見て、こういうやり方もあったんだなと、また楽しくなった。これが、印刷の力なんだなと、また考えさせられた。これもひとえに、ADの、山下リサをはじめ、太平印刷で今回一緒に仕事をしてくださった方々のお力であります。あと10日程すればまた書店に「いま」が、並びます、是非一度手に取って、皆さんの目で第二版を見て頂きたいです。

2005.12.07

今日は六本木のベルファーレに撮影で行って来た。名古屋愛地球博につずき、東京のキャバクラ数十店舗から二百数十人の女の子が集まり、多くのお客さんを集めて、一夜限りの巨大キャバクラを、キャ万博、として開いたのだ。私は、その二百人程のキャバ嬢を舞台に雛壇をつくり、並んでもらい二百人の女の塊を撮影した。それだけの数のキャバ嬢を、女の塊を、いっぺんに撮影する機会はなかなか有るものではなく、とても楽しかった。舞台はテリー伊藤さんが、高いテンションで盛り上げられて、さらに華やかなものになった。撮影後、テリーさんにご挨拶すると、テリーさんが、「なかなか、圧巻な画でしょう、いい画は撮れた?」と声をかけてくださり、自分は「はい。」と答えた。男と女でごった返す広いフロアーを、一人でながめていて、人のテンションを形にするという事をボーッと考えていた。

2005.12.05

女、男、人、どうやったら、人の心のもっと、ちかくにいけるんだろう、憧れなんです、私の。 あなたのおそばで、すがりつくように一緒に生きてゆくことが。それだけが、わたしの生きる道なんです。ちがうんです、私ではないんです、あなたなんです。どうやったら、ひとのこころの、もっとちかくに、いくことができるんだろう。

2005.11.30

ここ2年ほどは基本的に一日一食の生活がつずいており、朝起きて、はじめに口にするのはファンケル解凍青汁2パック、ヤクルト2~3本、の液体で、後は夕方か夜まで個体はほとんどなにも口にしない、もうそんな生活に慣れてしまい腹もすかないようになってしまっている。しかし、撮影の時や、旅先ではなんだかんだと食べまくっている、考えてみれば、高校卒業をしたばかりの10代の時には、60キロ前後を行ったり来たりしていた、むしろ安定した痩せ体形だったのだが、20代はほぼ、70キロ前後を行ったり来たりしていた、そして、30代になって、また、60キロ前後を行ったり来たりしているという、10年ぶりの体重の変動に気ずく、高校を卒業してからの自分の生活や考え方はまだ経験した事の無い、40代や50代の中年男性的だったように思う、食いまくって、飲みまくっていた。食う事や、飲む事にまるで、美徳を感じているかのようだった、なぜ、そんな事をしていたのか自分自身でもよく思い出せないのだが、実際、見ためが、子供っぽく、貫禄のかけらも無い自分がいやで、早くオヤジにでもなりたがっていたかのようだった。自分の過去について、あの頃に戻りたいとか思った事は無いのだが、今より10キロ以上太っていた70キロ前後の体重の時の自分の、笑顔の写真を見ると、自分で言うが、なかなか中デブスマイルな感じが愛くるしかったかな。なんて、ふと思ったりもするのだが、いまの予感としてはもう、あの、愛くるしい中デブスマイルにはもどれそうにはない。

2005.11.28

昨日、11月27日、自分にとって2冊目の写真集、「いま」の第2版の祝いの小宴を横浜で開かせて頂いた、出席者は、南大野幼稚園の岩本勉理事長先生ご夫妻、山本クリニックの山本晴章先生、池川クリニックの池川明先生、山本助産院の山本詩子先生、そして、お子さんが熱を出されていたのでほんの立ち話しか出来ずに帰られた、あおばおっぱい会の桶川美保子さんと、娘さんのなつこちゃん。自分の写真集の撮影は今の所どれも一人でする事が出来ないものばかりであるが、特に、「いま」は、この先生方の深いご理解と、大きな心と、前進する強い行動力によって、しっかりと支えられていた。この方々がいなければ、「いま」という写真集はこの世に存在し得なかったのだ。あとは、デザイナーの山下リサ、青幻舎姫野希美、共に強力スタッフ、プラス自分を入れて八名の為のスライドショーとなった。97年の夏、初めて南大野幼稚園で撮影をさせていただいた日から、8年と数カ月が経過していた。信じられない程の時間が流れていた、横浜駅西口のホテルの小会議室にスクリーンを立て、8個の椅子を並べ、今年10回目になり、写真集「いま」の一連のスライドショーとしては最終回となる夜を過ごした。9会場全てが異なる環境の中で行われ、30分くらいの長いスライドショーにも関わらず、京都、大阪、名古屋、東京2回、仙台、福岡2回、滋賀、横浜、と、ざっと数えて1000人前後の人に見て頂いた事になる、1冊目の「目のまえ~」の時は、今回の様な事は一切やらなかったので、「目のまえ~」が少し気の毒にも思える。「いま」に関しては、福岡で気持ち良く展示をさせて頂いたのだが、東京では結局2冊とも個展をひらけずじまいだった。3冊目もまた開けないのだろうか、いや、次回こそは必ず、東京でも、個展を開いてみたいものだ。話しがいちいち脱線しがちだが、自分の中では「いま」という1冊の写真集の製作が撮影初日から始まり、昨日のスライドショーでやっと終わったという気持ちになったのだ。自分にとってものを作ると言う事は、こうして色々な人に頼りながら関係を積み上げ、気持ちをこすり合わせながら出来上がっていき、それが、たぶん生きている限りつずくのだと、またそういった製作をつずけていきたいと感じた。

2005.11.24

ソニックユースが好きだ、気持ちいい、気持ちいい。ソニックユースのライブを聴きたい!どなたか、今後のソニックユースの日本ライブ情報をお持ちの方、是非是非教えて下さい。

タイに行って来た、いまあちらも冬らしいが、もちろん熱い。街を歩いて写真を撮った、いまタイは好景気らしく、バンコクでは建築ラッシュ、街中で工事の音が耳に入って来る日本では違法であろう高層建築物、写真を撮っていると、男が飛んで止めにはいって来る、違法工事であるから撮影されては困るのだろう、他にも土台と鉄筋が20階建て分くらい出来上がっているのに資金繰りが途絶えてそのまま廃墟と化している無用の建築物もあちらこちらに立ち尽くしている、違法であろうと合法であろうと、金が有ろうと無かろうと、とりあえず建てちまえというのである、街のそういった姿、テンションがいまのタイを象徴しているように思える、タイはハイシーズンで欧米からの観光客が目につき、中心地は人で溢れかえっている、タイには今回で4度目の旅になったが、死に対する恐怖感というものがタイ人全般的に薄いという印象を受けた、先ほどの街の状態しかり、セックス産業がこれほど大っぴらに大規模に発達してしまった国というのも今の所行った事が無かった、海外からの男の観光客がタイの女を連れ回している、セックスがタイの国民性と現在の好景気とからみ合ってブクブクのバブルになっている、セックスが近いという事は、死が近いという事であり、死が近いという事は同時に生が近いという事、いまのタイ、バンコクは、とても自分好みだ、生きているテンションがとにかく高い、生と死が同時にすぐ目の前にある。日本では、国民が総出で保険会社の外交員化していて、老若男女がお互いの人生の、確証のない安定を、保険代わりに交換し合って、安心と、確証のない保証を必死でかき集めている、根の暗さを感じてしまう。バンコクではマッサージパーラーと呼ばれる売春宿のまえで犬が5Pしていた。あちらここらに野良犬がいて野良犬天国。日本はすでに完成されてしまった国であり、街自身が、私はこれからどうすればいいのだろうと呆然と立ち尽くしているかのようだ。自分も日本人であり基本的には根の暗い生き物であり、なにしろ、なに一つ理解することのできない、まったくなにもわかっていないバカだが、いまのところ迷いは無いようだ。

2005.11.17

おかげさまをもちまして、「いま」初版分が完売となり、第2版分が現在京都で印刷作業に入りました。12月前半には再び書店に並ぶ予定であります。印刷のクオリティーは、うれしいやら、申し訳ないやら、初版よりさらにグッと上がってしまい、また機会があれば是非手にとってみて頂きたい、写真集と言う物を初めて出させて頂いた時の一つの衝撃が今も忘れられない、写真集とは写真そのものの撮影が終わり、構成、装丁デザイン、など、を経て最後に印刷にはいる、細かく言えば、もっともっといろいろな作業がそれぞれの行程の中につまっているのだが、印刷の工程の中、オリジナルのプリントより力強い印刷が出て来た時、印刷とは最後のクリエイティブなんだと思い知らされた、その本の出来不出来を決定ずける重要な、仕上げの創造的作業なんだと、いかに重要な事かと深く心に刻んだ。是非とも第2版の印刷クオリティーを御覧頂きたい。

2005.11.06

成安造形大学という滋賀県にある大学で、一日講師を依頼されて、のこのこと足を運んだ。前日の酒がだいぶ残っていて、おまけに頭痛もやってきて、体のコンディション的には良くない状況の中、案内された講堂にはいると学生の他に、一般のお客さんも混ざって、ほぼ満席の状態のなか拍手で、でむかえてくれた。広い講堂の明かりが落とされて、ピンスポットの中、いきなりとにかく熱い語り入れてくれとだけいう言う主催者側の学生達にマイクを持たされ、一人で放置された、二册目の写真集が出てから人前でぺらぺらと勝手な話しをする機会が増え、たぶん自分が出した作品について人前で話す今年最後の会が始まった、酒を飲むと昔からしゃべりたおす癖があり、たびたび翌朝になって、自己嫌悪におちいっていたのだが、最近のしゃべりたおす相手の人数は飲み会規模ではなく、講演会なのだ。しかし、相手が一人であろうが、酔っ払いであろうが、多人数であろうが、話しの中身が変わる訳でもなくやっぱり、かってきわまりないまったくの個人的な話しに終始する訳でそんなはなしが、いったい誰のどんなメリットにつながるんだろうかと、自分に問い返すのだが、まあ、しろといわれているのだから、とりあえずやっとけといういい加減な気持ちで、その時感じている事をできるだけ率直に言葉にしようと心掛けているのだが、なんなんだろう薄い罪の意識が残る。しろと言われたからといって、しょせん、自分ごときの人間が他人様の前で真っ昼間から語りを入れるなんて、ちゃんちゃらおかしくなってしまうのがおさえきれないのだ、しかし、作品集を書店においてもらうようになってからは、その作品に関して、自分にかんして、きかれれば答えなければならない義務感の様なものもかんじてしまうのだ、皆様には、たいへんなお気の毒な状況が私を人前に連れ出していただくたびに繰り返されていくのだろう。オーマイゴット。大学での時間が過ぎ、学生諸君とその後鴨川で酒を飲んだりして久しぶりに自分まで学生気分で、気持ち良くなってしまった。朝まで飲んでそのまま新幹線にのって、帰った。学校関係者の方々、無礼の数々お許し下さい、勝手にたのしませていただきありがとうございました。

2005.11.01

雨の日に、新宿で、プリンターとスキャナーを、購入する。かれこれ、一週間になるが、二つの品をダンボールから出したのは二日程前、それから、説明書を手にとれずに今日にいたる、まったく、機械の操作を理解しょうとする気になれない、なかなか面白いが、思考回路が止まるというが、まさにその状態、金縛りというやつか、たかがそれしきで。昨日酒を飲んだ。友達のミュージシャンと、久しぶりに会ったからだ。アルコールが血管をゆっくり回って行くのを感じた。解禁を1週間程前倒ししたということだ。やっぱり酒はいい。明日は、名古屋日帰り。明後日は、曽加部恵一さんのジャケット撮影、打ち合わせ無し。たのしみ。

2005.10.25

すっかり、明け方に眠りにつくのが癖になってしまった、もっと早く眠りたいのだが、そうはいかないみたいだ。眠れない物は眠れないのだ。とにかく酒を止めているので、夜なのに意識がはっきり冴えている。ちょっと前なら、今頃は麦焼酎と、何か他の酒で、相当気持ち良くなって、ソファに座ったままの体制で気を失うように、朝をむかえたりして、疲れをかえって増やしていたりするぐらいだったのに。しかし、今はなぜか、その酒もあんまり欲しくはない。とりあえずは、あと十日間の我慢をしてみよう。今、中学生の頃から酒を飲み始めてから一番長い期間、体内にアルコールが無い期間をすごしている。意外といいもんかもしれない。このまま止めたろうか、無理に決まっている。
モンゴルに明後日から行く予定だったのだが、急遽行かない事になり、時間が出来たかに思えたのだが、それはそれで、また、別の撮影が入ったり、写真を焼いたり、他の撮影の打ち合わせをしたりと、結局バタバタする。いいかげんにこのページの工事中の間をこのメッセージでうめるには限界が来ているようだ、はやく、写真など、とりそろえられるように準備をしよう。滋賀県にある生徒数の少ない大学があって、そこに、なにか、呼ばれており、なにか、話せと言う、しかし、構内では、酒を飲んではいけないらしく、じゃあ、構内に入る前に一杯やっとかないとな。だって、10月5日に禁酒を始めて、一ヶ月間止める事を決めていたので、11/5日はまさに解禁日なのであるし。是非、失礼をさせてもらおう。おれは、話しになんて行かない、酒を飲みに行く。
そういうことで、学生諸君よろしく。

2005.10.23

もう、8~9年にもなるだろうか、『みんなのねがい』という雑誌があり、それは障害者の施設や、その、ご家族方に、月刊で購読されている、障害者関連の機関誌なのだが、その、表紙の写真を撮影させて頂いている。(8~9年の間の1~2年間は表紙はイラストだったためその期間、撮影はしていない。)昨日、栃木の、障害者施設にまた撮影でお邪魔した。一見、大きくて、整った感じのする施設で、そこにいる、障害を持った人々、(障害者問題の関係の方々は彼らを、仲間、と呼ぶ)は、清潔な施設でのびのびとそれぞれの時間を過ごしているかのように見えるのだが、今や、それは表層の姿であり、障害者を取り巻く環境は、非常に厳しく、複雑で、深刻な状況にある。自分もここまで、何年にも渡って撮影をさせていただいておりながら、不勉強であるが、健常者である、そして、働き盛りである自分達のすぐ近くに、すぐとなりにこの、障害者をめぐる問題は根を深くしつずけている。自分の義父が、障害者であるということもあり子供の頃から、我々健常者と、障害者の持つ精神的世界観の圧倒的な違いに、物理的な生活環境の違いに、度々愕然とさせられていたのだが、障害者問題の一線の現場では、もう、自分の育って来た家庭環境や、いままで目にしてきた、表層的な障害者に対する認識は吹き飛んでしまう出来事が、公然と行われていて、その、問題のあまりの根の深さに、いまさらながら強力な危機感を感じた。今ここで細かく説明など出来ないのだが、健常者達の視界からかすかにはずれた、所に、地獄がある。特に深刻なのは、歳をとった障害者、そして重度の障害を持ちながら、生活力の無い、経済的に貧しい人々のもんだいだ。歳をとった金の無い障害者。彼ら自身の力ではもうどうしようもないのだ。貧しい障害者は黙って死ねと、言わんばかりの法律を国が作ってしまった。彼らの問題は社会の隙間にある闇の中に公然と黙殺されようとしている。福祉の環境は、日本に限って言えば、大正時代か明治時代にタイムスリップしてしまったようだと、現場の関係者は話していた。

2005.10.19

このメッセージは大抵深夜に書いている、日付けは一日すすむ。昼間は時間がないし、夜中になると、腹の中にいすわる気持ちを、蹴り出したくなる。これは、どこかに、移動しているときなどにも同じような衝動に駆られて、新幹線や、駅のホーム、飛行機の中、関係ないが、飲食店でも、自分の手帳に、脈絡の無い言葉を、書き捨てている。男と女、セックスが関係していれば、不純で、関係していなければ、純粋、これはあまりにも、短絡的すぎる、そこで、なにが、起ったのかが問題なのだ。体はまったく触れていなくとも充分衝撃的な感情を共有する事は出来るし、いくら、関係してもかえってさっぱりしてしまう関係だってある、その時に本能が、理屈抜きでなにを欲しているかだけが、何に反応してしまったかだけが、正直なところだろう、それは、すべて、自分が一番解っているに違いない。何処に居てなにをしているかではなく、自分の心は何処にあるのか、だろう。なにを、どうしても、自分の場合隠しきれないのは、事実だと思うが、うまく隠しおおせている所だってある。
ビル,ヘンソン氏の写真集を見た、当たり前だが、私とは違う、この本は、ギリシャ語で、記憶、と言う意味の、ローマ字読みだとどう読んだらいいか解らないタイトルで、氏の30年の、作品がまとまっている、出版社はスカロ、一番最新作らしきものが、本の最後におさめられていて、その一連はとてもいい。とてもいい。が、そのまえは、まるで、絵画のように写真を後からいじくり回していて、氏の気持ちはわかるが、自分の気持ちが強くそれらの写真に呼応することはなかった。人の作品は、大抵見た方がよかったと思える場合が多いが、見なければよかったと、思う場合もたまにあって、この本の中盤の何点かの写真はそう思った。自分の三冊目、そして、その先に、自分の未来がつながっていく予感がして、なんとも早く、たぐり寄せたい気持ちになる。次の本を早く出したい。
しかし、そうは簡単にはいかない。最近やっとなんとなく、写真集と、作家の関係性が見えて来たような気がする。

2005.10.18

風呂に入るまえに、自分の顔を鏡でみた、これが、俺なのか、と、鏡に映る自分という物体をながめながら、心のどこかで、これは現実では無いのではないかとうたぐってしまう、瞬間的に崩れさってしまう自分と言う物体をながめながら、人間という地球上に突如わき起った現象を感じてしまう。俺は現象なんだ、たしかに生きている、自分はたしかに、自分だ。わかっている。しかし、人間とは一つの地球上での現象。一本の草と自分が同じだと信じられる。人は、年をとりやがて死ぬ。時間という物が流れている、おでんも、やがて冷め、くさっていく。時間の中ですべてが、消え去って行く。私という、人間という現象。どこかで、人が叫ぶ、あるく、目と目が合う、息をして、地面にたっている。どこに向かおうと、私は人間というだけ。この信じがたい事実。私は、生きている人間であるという信じがたい事実。いま奇跡がおこっている、本当のファンタジーが、ただ目の前に広がっている。人間よ、がんばれ、がんばって、横断歩道をわたり、がんばって、あの道の角をまがり、がんばって、階段をのぼり、そしておりろ。人間よ、がんばれ!がんばって、買い物かごをぶらさげ、がんばって、家にたどりつけ。がんばれ!がんばれ!がんばれ!!人間よがんばれえ!!

2005.10.17

今日は、車を売った、お好み焼きを食った、ウーロン茶を飲んだ、むしょうに、チョコレートが食べたくなり、コンビニで違う銘柄を5つ買った、ウィダーインゼリーも4つ、買った、生茶も買った、ヨーグルトも4つ買った、黒のジャンボ傘を600円で、二本買った、地震でテレビが揺れていた、中途半端な揺れだ、掃除機をかけた上に消臭剤を、ふりかけた、頻尿症で、尿道がむずく、口内炎が痛くチョコラビービーも買った、食卓の電気は故障してつかない、物干竿も2本買った、11月5日まで禁酒をする、毎朝青汁を飲む、ヤクルトをのむ、のどの薬も飲む、この、ホームページも非常に面倒くさくなってきて、中途半端な気分になってきた、やめるのはかんたんだろう。こういうのは、向いていない事はわかりきっていたんだが、がんばっちゃったな。ファック!

2005.10.13

今日は、なんとも、なにを着てよいやら判断しかねる日だった。家の出口で、汗をかきそうな気温だと思い一度上着を厚手のものから、薄い物に着替えた。気温はちょうどよく、快適に歩けた、夕方自分の前をあるくスーツ姿のたぶん自分と同じ年くらいの会社員らしき二人の男性がなんとも楽しそうな、軽い笑い声を上げながらネクタイを揺らしながら歩いてゆく、やわらかい風が前の方からゆっくりとつながってくる。自分もその風にあたる。ふと、「俺の人生もう思い残す事は無いんじゃないか、もうじゅうぶんじゃないか、いま、気持ち良く風にふかれて歩いている、これで大満足じゃないか」そんな気持ちが、ここちよく顔にあたる風を感じるように、自然にあらわれた。別に死にたい訳でもなければ、なにかに絶望している訳でもない。むしろまったく反対の気持ちだ。まえを歩く二人とても楽しそうだ、今日の夜は、白いごはんに福岡で買った明太子をのせて、一人で食べよう。

2005.10.12

 5月のはじめに、書店に並んだ「いま」という私にとっての二册目の写真集ですが、9月はじめ頃には、各書店等でほぼ在庫がなくなり現時点では初版2000部は完売の形となっていて、第2版をかけさせて頂く運びとなりました。
 本体価格、5000円、消費税別、けして安い本ではないと思う。そして、内容に関わらず物体として重たく、そこそこ大きい、持って帰り、置き場所の事も考えると、買う事自体にためらいを感じた人も少なくなかったのではないでしょうか。それもふまえ、ご購入頂きまして、誠にありがとうございます。
 って、車のセールスメンの方みたいですが、97年夏頃から2004年春頃までの私の6年半ほどが集約されているのが「いま」という本です。自分自身誰かの写真集を買って家に持ち帰るということは稀なこと。家に写真集を持って帰るという事は、戸棚の奥にでもしまっておかない限り、目に見える場所にその本を置いておくというのであれば、それは毎日一瞬でもその写真集が目にはいる訳で、ある意味その本と生活をともにするという事になり、撮影者も写真と一緒になって、持ち帰られた先の空間にどっかと腰をおろしてしまう、作品の内容にもよる所は間違いなく大きいのだが、それを、自分の、生活の空間に受け入れる人たちとは、実はかなりの体力の持ち主なんだと思う。

 私の写真で、家に持ち帰れるのは2冊の写真集だけではない。最近、福岡でやらせて頂いた個展をかわきりに、以後、自分のプリントを、シリアルナンバーを付けてきちっと管理しながら、販売して行く事にしました。2冊の写真集「目のまえのつつ”き」「いま」の中で発表した作品に限るのですが。興味のある方は、ご連絡下さい。

 連絡先、、姫野、、090ー9542ー5111、、姫野氏は、写真家としての私の現在に至るまでを、出版社である青幻舎に身を置きながら、二册の写真集を通して、私に近い位置で見ており、今後しばらくは、作品の管理を中心に写真家大橋仁としての活動のマネージメントをして頂く事となりました。以後お見知りおきのほどを。

ややこしくも、簡単な話ではありますが、大橋仁の私的な、個人的な、作品制作以外の、カメラマン大橋仁としての活動に関して、姫野氏は一切、関知しておりません。

つまり、私、大橋仁の私的、個人的、ではない作品に関しましては今までどうり、直で、私自身が対応させて頂きます。

最後になりましたが、第ニ版は12月中旬には書店に並ぶ予定であります。

2005.10.10

ホームページのはじまり。

私、大橋仁は、今日からホームページをはじめます。はじめるといっても、私自身今の所、この、仕組みがほぼまったく解っておりません。「解ってないならはじめるな」とのご指摘もあろうかと思いますが、私よりずっとよく解っておられる方からのご指南のもと、以後、内容を、充実させていきたいと思っております。しかしその反面、内容といいながら、充実といいながら、やはり、私自身、その事を、よく解っておりません。きっと、夜中にパソコンの前に座りこのような独り言をパチパチと打ち込んでいくという事はこのhpがたんなる、私の精神の吐き溜めになってしまうのではないかと思いながら、始めさせて頂きます。よろしくお願い致します。福岡での初めての個展を終えて、仕事も一山超したと思いきや、只今もしっかり発熱しており、タオルを首に巻きつつ、汗を出し、さいさきの悪いはじまりです。