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2015.01.08

1月8日

2014年12月20日にネット上(http://www.tabroid.jp/news/2014/12/matsumoto4.html)でアップされた自分のインタビューについて、順を追って書いていきたい。

私の最新刊『そこにすわろうとおもう』(赤々舎刊)という写真集には、300人の性交の写真が収録されているが、その写真撮影と、インタビュー冒頭で話したタイでの写真撮影はまったく別のものであることをまず明示しておきたい。その部分についての誤解が流布している。

『そこにすわろうとおもう』は、被写体全員の撮影又は写真の使用許諾を取得し、契約書を交わした上で(撮影モデル達はAV関係のプロの男優女優であり、すべての撮影経費は大橋仁の自己負担)、日本のスタジオで撮影したものである。無人島を貸し切った事実も一切ない。

今回話題になったタイの撮影(東京都写真美術館での展示作品)と、『そこにすわろうとおもう』は完全に別シリーズで、関係がなく、全く別のシリーズであることをまずご理解頂きたい。

『目のまえのつづき』(青幻舎刊)という自分にとって初めての写真集を出したのが、1999年、19才から25才までの6年間、自分の生活の中のあらゆる瞬間にカメラを向けていた。街、犬、セックス、長く付き合った彼女との別れの朝、障害を負った義父の刃物での自殺未遂、その復活(人間とはそもそもあまりにも存在が不確かな生き物、人間同士、お互いの関係性だけが唯一その存在を確かめ合っている)、人間の持つ不確かな絶望と希望。その頃、濃い霧の向こうから伸びている一本のロープを、生と死、幻と現実、希望と絶望、実はそれらを自ら宿している己の命を乗せた肉体から、けして理解する事などできない程途方もなく深く大きく、そして厳然とそこにある肉の気配を、血の予感をたぐり寄せはじめていた。

2005年は、ある幼稚園で130人程の子供達の四季の姿と、10組の妊婦の出産シーンを1年8ヶ月かけて撮影し構成した2冊目の写真集『いま』(青幻舎刊)を刊行したばかりの頃だった。理屈の一切ない子供達の無垢で強力なエネルギーに揉みくちゃにされ、まさに生れ出る瞬間の命の姿を正面から撮影し、追って走っていた、陣痛が始まって24時間以上も生まれないお母さんもいたし、接写しすぎて息む妊婦さんの羊水をかぶった事もあった。人間の生れ出る現場、その瞬間、その場では何が起こっているのか、誕生とは何だろう、母の卵巣で灯された命の記憶は血と肉に刻印され、生活している我々の今この瞬間も己の感覚に直結して繋がっていて、最初に刻印されたその感覚は人間が死ぬまでの人生のそれぞれの羅針盤になっているように感じる。人間という肉が、命という巨大な存在がまたしても己の意識とちっぽけな存在を包み込み飲み込んだ、その生の存在は心地よかったが、同時に死という圧倒的な無の世界が広がっている実感は、自分の中で命とはそういうもの、という学びだけではすでに終わらせる事ができなくなる体験だった、一冊目の時より命の記憶や肉の存在とそこから発せられているエネルギーに関して更に自覚的になり、命へと繋がっていく知りたい、近づきたいという欲求は自分の中で決して排除できるものではなかった。

2005年、仕事の撮影で訪れたタイで、巨大なビル型ソープランドの立ち並ぶ街に行く事になった。

(日本にも飛田新地など置屋街は行った事があるが、飛田はそれぞれ別棟で一戸につき一人の女性が店の入り口で客を出迎える形式であり、そういった置屋が一区画に林立はしているが、一つの部屋に小さくとも30~50人、大きい所では100~200人ほどの女性が待機しているような店は日本には一軒たりとも無く、その規模において自分は世界中でバンコクを超える場所を知らない)

店の基本的な形として、大小様々だが建物の内部に金魚鉢と呼ばれる女性達の客待ちスペースがあり、そこはガラス張りだったり、そもそもガラスの仕切りが無い店もある。女性の容姿がわかりやすいように待機スペースはひな壇型に作られていて、女性達は番号札をつけ、裸の状態ではなく、衣服を着た状態で、ひな壇に座って客を待つ。客は女性を選ぶと同じ建物内の個室に移動して行く。客が女性達を選ぶ金魚鉢前のスペースは、酒を飲むようなバーになっていたり、ベンチシートがならんでいたりと様々で、飲み物を飲めばお金はかかるが、希望者は誰でも無料で入場する事ができる。そしてこのような建物の中の金魚鉢だけではなく、バンコクの街角ではまったく一般の人々が行き交う通りに面した金魚鉢も点在していて、お店に行くつもりのない無関係の老若男女も、客待ちをする彼女達の姿を彼方此方で見る事ができる。つまり、客待ちをしている女性達の前に広がる客のスペースは、個室でも、密室でも、私的な空間でも全くない、希望者であれば、誰でも出入りができるほぼフリーなスペースなのが事実。

自分は最初何も知らずに立ち入ったのだが、突然現れたその光景に愕然とした。公然とした売買春の現場である事、そのシステム、そのスケールの大きさにもだが、女性の待機スペースは常にすべて客側の一方向に向けて作られており、寿司詰め状態で待機する大勢の女性達の凝縮された視線は、ひょっこり入って来た客に一斉に集中し、男は女性を見ているつもりが逆に自分が見られている感覚になるほどの視線の圧力を感じる。そこにいるすべての女性にそれぞれの全く違った思いと事情がある、しかしそこは、肉欲を求め満足させるというたった一つの目的だけがすべてを支配している空間、金を稼ぐ為に、ただ客の肉欲に対応する準備をして女性達はそこにいて、男達はそこに群がる。その場を支配する目的がシンプルで、単一的で、原始的であるほど、その集合体が発するエネルギーは人間の根源的な動物としての欲望と本能をかき立て、濃い生と死の匂いを放つ。本来セックスとは種の保存を目的とした非常に野性的で動物的なエネルギーの交換行為であり、現代では一対一で行われる事が普通とされている世の中で、このような肉欲の満足のためだけの原始的で刺激の強いエネルギー交換の場が集合体(店で乱交しているという事ではなく、金魚鉢の存在の事を指す)として公然と大規模に存在し、強いエネルギーを発散しているのを自分はバンコクの金魚鉢で初めて見た。その寄り集まった人々の肉のエネルギーはすでにそれぞれの私情を超え、飲み込み、まったく原始的で、動物的な肉の叫びが共鳴し合っている大きな命の塊の前にいきなり自分は立たされたようだった。その大きな命の塊を前にした時、すでに自分の中で今まで繋がってきた命へ、肉への文脈が一直線に繋がってしまった。売買春における様々な価値観や倫理観、それぞれの感情や思いとは全く別の、人間の肉体、命の領域、億の精子が卵巣を目がけて突き進む姿、精子と卵子の結合、細胞と細胞のぶつかり合い、ミクロの世界での、人間の作った小さな価値観など遠く及ばない領域での激しく壮大な命の衝突と発生の記憶を、金魚鉢のまえで自分は瞬間的に体感してしまったようだった。非常に身勝手な事は充分承知しているが、あの当時、撮影者である自分にとって、もうひく事の出できない状況になっていた。売春宿の現状を社会的に訴えたいのでも、女性達の人権や尊厳を蹂躙したいのでも、写真表現や芸術の為などでも一切なく、自分の知る限りの世界で稀に見る限られた区域でしか発生しないエネルギーの渦に、一個の命としてカメラと共に体でぶつかってみたい、飛び込んでみたい、ただそれだけの思いが涌き上った。それはそこでうごめくエネルギーと自分の命の引き合い、共鳴でもあった。

自分が撮影場所にした金魚鉢では、ほとんどの場合、カメラにバッテンマークが描かれている撮影禁止のステッカーや張り紙がデカデカと貼付けてあり、撮ってはいけない場所なのは誰でもわかる。最初に仕事で行ったタイで撮影は一切せず、完全に自分の撮影のためだけに再度タイ、バンコクに向かった。

最初は現地のコーディネーターに仕事として、お店に対する撮影許諾、働く女性に対する許諾を依頼して、もちろん自腹で巨大な金魚鉢を貸し切るわけにもいかず、中規模で撮影許諾ありの店を十数軒撮影した。そこで出会った女性達の表情は、屈託がなく、軽やかで、とても美しかった。自分の撮影のために、お店の空き時間や休み時間にわざわざ出て来てもらったりして、戦闘態勢に入っているお店での精神状態は一旦リセットされ、前もって撮影される事に準備をし、彼女らは一人一人見せたい自分の姿で現れた。それ自体は非常に素晴らしく美しい姿であり一対一で撮るポートレートとしては良い写真になったのだが、今度は2~30人の集合体としてガッチリカメラ目線をもらって撮影しても、前もって撮影の為の準備のされた精神状況と場で行われる撮影は彼女達から発せられる、気が、エネルギーが、静かに整い落ち着いており、職場の広告写真、又は職場での記念集合写真のようになってしまい、自分が出会った初めてのあの瞬間の、むき出しの破壊的なエネルギーはそこには無く、その場で流れるエネルギーの周波数のチャンネル自体が別の物になってしまっていた。十数軒の許諾有りの店と百人以上の許諾有りの人を撮影し、自分はその違いに愕然となった。

金魚鉢での彼女達の強力なエネルギーにぶつかるために、許諾は逆に障害になってしまう事を悟りゲリラ撮影に手法を切り替える事にした。

客の入ってくる一方向に向って座っている女性達に対して、自分は一人の客として入っていき、金魚鉢の真ん中の真正面から、カメラを構え撮影した。まず撮られている女性達が撮影者である自分の行動に瞬間的に気付く。店員や用心棒や他の客、誰にでも自分の撮影行為は瞬間的に目視で確認できる、それほど目立つ場所のど真ん中で自分はカメラを構えた。撮影のチャンスは1シャッターしか無い。1シャッター目で気付いた女性達は、2シャッター目では顔を背けたり、手荷物で顔を隠したり、その中の2~3人はひな壇から降りる人もいた(パニック状態というインタビュー中の自分の表現は大袈裟だった)。しかしほとんどの女性はひな壇に座ったまま動かず、場内がパニック状態になる事はなかった。なぜかと言えば、自分のような撮影禁止場所にもかかわらず写真の撮影をしようとするバカな観光客など世界中におり、たぶん1日に何人か居るのかもしれない、そのため店としては大きな撮影禁止ステッカーを貼り巡らせ注意喚起を行っている、それでもカメラを向ける人間がいれば5秒以内には用心棒が走って来て取り囲まれる。フラッシュを発光させながら、パニック状態に陥って逃げ惑う女性達の背後をカメラを持って追いかけ回すような物理的時間など全くなく、自分はそんな事をしたいという意思など微塵もない。女性達があまり慌てないのは、自分のしたような瞬間的な無許可撮影には慣れっこで、たまに現れる変な観光客の一人という捉え方しかしなかったからだろうし、店側はそういう私のような馬鹿には常に迅速に対応するからだ。取り囲まれると、馬鹿な観光客を装い撮影を止めた。場内が自分の撮影行為で異常な混乱をきたす様な場合が、もしあったとしたらそれ以上の撮影も絶対しなかっただろう。

タイでは民間人がけっこう普通にピストルを持っている。民間人の拳銃所持はタイで違法なのかどうかは知らないが、店の用心棒などが拳銃を携帯している可能性は非常に高い。誰からも見えるその場所で一人カメラを構える事が、また、それを他の数店で繰り返すと言うという事が、自分の死のリスクを発生させる事もわかっていた。それほどまで、あの当時の自分は人の発するエネルギーに、引き寄せられ、非常に強く呼応する自分の肉と、命の引き合いから逃れる事ができなかった。シャッターの一押しが、まるでロシアンルーレットの一回の引き金のように感じたが、惹きつけられている大きなエネルギーを前に、そのエネルギーに飛び込まない事、シャッターを切らない事は、大袈裟に自分の人生の敗北と終わりを決めてしまう行為のように思えていた。自分はシャッターを押した、引き金を引いた、幸運な事に実弾が自分のこめかみを貫通する事はなかった。

現地コーディネーターが「こんな事を繰り返していたら殺される」といち早く離脱して行ったのは当然だったと思うが、あの集団の命の発するエネルギーは、学校の集合写真などで発せられるそれとはまったく異質のものであり、あそこに、男娼が混ざってていたとしても、または、男娼だけだったとしても、男女の性も、国も、職種も、思想も宗教も全くもって、一切関係なく。そのある、非常に限られた方向のエネルギーを発する命の塊があれば自分はその正面でカメラを構えただろう。

エネルギーに対して真ん中の真正面からぶつかる事だけを願ってゲリラ撮影に踏み切り、そのために死のリスクもいとわなかった自分が、誰の目を恐れ、盗撮や隠し撮りなどという姑息で無駄な事をする必要と理由が、一体どこにあったと言うのだろう。コソコソ隠れて行う盗撮などでは断じてない。自分は、撮影禁止場所での無許可のゲリラ撮影をその空間の真ん中の真正面で、瞬間的にだが、行ったと言う事だ。

悪自慢や、芸術自慢をするために命をかける程自分は悪でも、芸術家でもない。自分は自分の命の反応と、人間の命が響きあい、ぶつかり合う事で発する自分を遥かにしのぐ大きな命のエネルギーにただただ飛び込みたいだけの一個の命だったにすぎなかった。

今回ネット上で掲載された自分の作品に対するインタビューによって人々の誤解を生み、喋り言葉がそのまま文字ヅラとして並ぶと、伝えたい言葉の本質と違う方向に受け止められて、初見の人達に、時には不必要に不安や敵意を煽るような印象を与える記事内容になってしまった事、またそれをしっかりチェックし正さなかったのは、自分の不徳の致すところである。そして、当時タイで自分のゲリラ撮影の現場に居あわせたタイ人等の方々に対し、ご迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます。

東京都写真美術館での「スティルアライブ 新進作家展」に於いて2007年11月~2008年2月迄展示された、タイの金魚鉢で撮影した3点の写真については、被写体の方の事情や諸般の事情を思い合わせ、今後、新たな展示や掲載を差し控えたいと考えます。

私たち人類は、肉から生まれて来たのだ。

その事実から目をそらしてはいけない。
人は現代を、ハリボテの様な後付けの論理と理屈で作られたルールに則って生きている、ただそれだけの生き物なのだ。
時代性でコロコロ変化する後付けのルールではなく、自分の肉のエネルギーを通した感覚と反応という人類誕生以来ずっと一貫して揺るぎない生きるための本質的な命のルールに目を向けるべきだ。
あらゆる方角と次元から発想を巡らす事ができる人間の持つ小さな想像力と、感受性、それだけが人類最後の武器だ。
全ての人類の持つ、能力の限界の壁を前に、自分は頭の良い知的生物だと言う単なる勘違いを捨て去り、自分の肉が発するエネルギーと、他の人間との肉と肉のコミュニケーション(性交と言う意味ではない)に注目する事が出来たなら、人は自ら、その真の姿を知り、自覚する事になるだろう。自分とは。命とエネルギーの正体に近づく試みを重ねる事でこそ、今やるべき事がはっきり見えてくると自分は信じている。